慶應文学部2025日本史解答解説:史料問題の現代語訳と背景知識|平安時代政治史と異国船政策

慶應義塾大学文学部の日本史では史料問題が出題されます。

教科書に載っている定番史料ではなく、初見史料がほとんどです。この記事では、そんな史料問題の理解を深めるため、現代語訳や背景知識を紹介します。

2025年の大問4は、平安京の成立から災害による都の再建、そして朝廷の財政難までを扱います。大問5は異国船打払令と天保の薪水給与令。論述の総字数は200字と、例年より長めです。

なお大問1〜3は後半に解答と簡単な補足を載せておきます。

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大問4:平安時代の政治史

794年の遷都から1028年まで、平安時代の約230年分の史料が並んでいます。

テーマは平安京と言えるでしょう。

マンガで言えばここら辺です。一見バラバラですが、都が災害で壊れ、それを建て直すお金をどう工面するかというテーマで繋がっています。

苦手な人は、漫画でもいいので改めて流れを抑えておいてください。

大問4:解答

問1:A:山背 B:平城 C:応天門 D:重任

問2:天智天皇(近江大津宮を営んだ。桓武天皇の曽祖父にあたる)

問3:藤原薬子(平城太上天皇の変を主導し、平城京への再遷都を天皇に働きかけた人物)

問4:藤原道長(法成寺を建立。史料(ニ)の「余」は道長本人)

問5:小右記(藤原実資の日記。道長の「この世をば」の歌を記録したことで知られる)

問6:災害による内裏や官庁の再建で朝廷の財政が逼迫する一方、律令制にもとづく税収も減っていた。そこで受領と呼ばれる国司に徴税を委ねる一方、私財で造営を担った者には重任や叙爵を与えて財源を確保した。(95字)

史料(イ):平安京の命名と山城国

この国、山河襟帯、自然に城を作す。この形勝によりて、新号を制すべし。宜しく( A )国を改め、山城国と為すべし。また子来の民、謳歌の輩、異口同辞にして、号して平安京と曰ふ。また近江国滋賀郡の古津は先帝の旧都なり。今、輦下に接す。昔の号を追ひて大津と改称すべし。

現代語訳例

この国は山と川が襟や帯のようにめぐっていて、自然のままで城のような要害をなしている。この地形の良さにちなんで、新しい呼び名を定めるのがよい。山背国を改めて、山城国とせよ。

また、親を慕う子のように集まってきた民や、天皇の徳をたたえる人々が、口をそろえてこの都を平安京と呼んでいる。近江国滋賀郡の古津は先帝の旧都であり、いまは都のすぐそばにあたる。昔の呼び名にならって大津と改めよ。

出典は「日本後紀」の延暦13年(794年)条。桓武天皇による平安遷都の詔です。この詔では、遷都した都を「平安京」と呼ぶことが記されています。

もともとの表記は「山城」ではなく「山背」。奈良(平城京)から見て、奈良山の背後にあるから山背でした。それを山と川に囲まれた天然の要害であることを強調する字に変えたわけです。

「先帝の旧都」とあるのは、天智天皇が営んだ近江大津宮のことです。桓武天皇にとって天智天皇は曽祖父にあたります。この詔では、その旧都のあった古津を「大津」と改称することもあわせて命じています。

史料(ロ):藤原薬子の変

先帝の万代宮と定め賜へる平安京を、棄て賜ひ停め賜ひてし( B )の古京に遷さむと奏し勧めて、天下を擾乱り、百姓を亡弊す。

現代語訳例

先帝が万代の宮と定められた平安京を捨てさせ、廃止させて、平城の旧都へ遷そうと奏上して勧め、天下を乱し、人民を疲弊させました。

出典は同じく「日本後紀」の弘仁元年(810年)条。

平城太上天皇の変(薬子の変)に関する記述で、藤原薬子が糾弾されています。

平城太上天皇が弟の嵯峨天皇に譲位した後、平城京への再遷都を企てました。都が二つに割れる、いわゆる二所朝廷の状態です。薬子とその兄・仲成がこれを主導したとされ、変の失敗後、薬子は自害、仲成は射殺されました。

設問では「二所朝廷という政治的混乱を招いた人物」として問われています。平城太上天皇本人ではなく薬子を答えさせる形です。

薬子の変の結果、藤原式家が凋落して、次の良房らを擁する北家が台頭します。

史料(ハ):応天門の焼失と財政難

貞観年中に、( C )及び大極殿、頻に災火あり。儻、太政大臣昭宣公、躬の誠、具瞻の力によりて、庶民子のごとくに来り、万邦麛のごとくに至りて、この宇を修復すること期年にして成せり。然れども天下の費、また一分が半を失へり。然れば当今の時、曽て往世の十分が一に非ず。

現代語訳例

貞観年間には、応天門と大極殿がたびたび火災にあいました。たまたま太政大臣昭宣公(藤原基経)の誠意と、人々の信望に支えられたその力によって、庶民は親を慕う子のように集まり、諸国から鹿の子のように人が寄り集まって、これらの大きな建物を一年で修復することができました。

しかしそれでも、国家の財政はかなりの部分を失いました。今の時代の財力は、かつての十分の一にも及びません。

出典は「三善清行意見封事十二箇条」。三善清行が延喜14年(914年)に醍醐天皇へ提出した意見書の一節です。

貞観8年(866年)の応天門の変についての記述です。ここら辺の知識を引っ張って答えます。

事件の渦中で、藤原良房は清和天皇から「天下の政を摂行せよ」と命じられ、正式に摂政として政務を担うことになりました。人臣による摂政の初例です。

設問Cは「下線bの人物の養父が正式に摂政となるきっかけとなった変で焼けた建物」を問うています。下線bは太政大臣昭宣公=藤原基経、その養父が良房です。

清行が言いたいのは「あの時代ですら再建に国家財政の相当部分を費やした、まして今はその十分の一の財力もない」といった感じです。

9世紀末から10世紀にかけて、律令制にもとづく租税や地方支配の仕組みは次第に変質していました。

この辺の税制の変化は、芸人奥田さんのYoutubeでも紹介されていますので、参考までにどうぞ。

史料(ニ):私財で内裏を造る

召し有りて御前に参る。仰せられて云はく、作宮の事を定むべし。諸卿を召すべし。

……御前より播磨守陳政の申文を給ふ。文に云はく、私の物を以て常寧殿・宣耀殿を作らむ、( D )の宣旨を賜へ、と。

……余申して云はく、……未だ功了らざれば、賞に預る事よろしからずと雖も、免さるる例有り、公益に依りて免さるべし、然るべき所を加へらるるは如何、と。此の由を以て奏聞す。

現代語訳例

召しがあって天皇の御前に参上しました。仰せには、内裏造営のことを決めるように、公卿たちを召集せよ、とのことでした。

……御前で播磨守・陳政の申文をいただきました。そこには、自分の財産で常寧殿と宣耀殿を造営するので、重任の宣旨を賜りたい、と書かれていました。

……私が申し上げました。……まだ工事が終わっていないうちに褒賞を与えるのはよくない、とはいえ、これまでにも免除された前例はあります。公の利益になることですから認めてよいでしょう。しかるべき箇所を加えて造らせてはいかがでしょうか、と。この旨を天皇に奏上しました。

出典は「御堂関白記」の寛弘2年(1005年)条。書き手の「余」は藤原道長です。法成寺を建立した人物として問4で問われています。

設問にもなっている重任について少し解説します。国司の任期が満了した後、同じ官職にもう一度任じてもらうことです。播磨守の陳政は、自腹で内裏の殿舎を造る見返りに重任を求めています。

このように、私財を投じて朝廷の造営などを行い、その見返りに官職や位階などの恩賞を受ける仕組みを成功(読みは「じょうごう」)といいます。重任はその恩賞のひとつです。

朝廷には金がない、しかし内裏は建てなければならない。実質的には、官職を対価とした資金調達でした。

「工事が終わる前に褒賞を出すのは筋が悪いが、前例もあるし公益になるから認めよう」。しかも「しかるべき箇所を加えて造らせては」と、ついでに工事範囲まで広げようとしているのが、生々しい文章です。

史料(ホ):倒れた府庁を建て直す

右府より示されて云はく、連日の大風、また畿外の国も多く風損するの由と云々。豊楽院の門等、並びに府庁の顛倒す。

府庁造立すべきこと、府の力及び難きか。爵を申し、府の力を加へて作らむと欲すと云々。

現代語訳例

右大臣(藤原実資)から知らせがありました。連日の大風で、畿外の国々でも風害が多いとのことです。豊楽院の門などや、府庁が倒壊しました。

府庁を建て直すにも、府の財力だけでは難しいでしょう。そこで爵位の授与を申請し、府の力もあわせて造営したいということです。

出典は藤原経頼の日記「左経記」の長元元年(1028年)条。「右府」は右大臣・藤原実資を指します。

問5はこの藤原実資の日記を答えさせる問題でした。小右記。「小野宮右大臣の日記」の略です。道長が詠んだ「この世をば我が世とぞ思ふ望月の……」を書き留めたのが、他ならぬこの小右記でした。道長の絶頂を伝えているのが、道長と距離を置いていた実資というのが歴史の面白いところです。

内容としては、台風で倒れた府庁の再建費用が足りないので、爵位を与える見返りに造営費を負担してもらおう、という相談です。いわば売位に近い資金調達ですね。

官職と位階の違いはありますが、立場を売って資金調達するという点では、史料(ニ)の重任と同じ構造です。

問6は、史料(ハ)の財政難を出発点として、造営費が賄えない朝廷が私財を出した者に重任や叙爵を与えて財源にしていく、その因果関係を100字以内でまとめさせる問題でした。

制度名を並べるのではなく、なぜそうなったのか因果を書けているかがポイントです。災害で壊れる、金がない、官職で払う、の三段階が書けているといい感じです。

藤原実資は、2024年の大河ドラマ「光る君へ」でロバート秋山さんが演じたことでも話題になりました。大河ドラマを見ていた受験生は少し有利だった?かもしてません。

大問5:異国船打払令と天保の薪水給与令

史料(イ)が天保13年(1842年)の薪水給与令、史料(ロ)が文政8年(1825年)の異国船打払令です。

時系列とは逆に並んでいるので、その点だけ注意してください。

まんが日本の歴史だと、11巻が該当します。

大問5:解答

問1:二念(二念なく=ためらわずに、の意味)

問2:文政(文政8年=1825年、異国船打払令)

問3:享保(享保・寛政の政治への復帰を掲げた。天保の改革の基本方針)

問4:薪水(=薪と飲み水)

問5:上陸

問6:iii(文化3年の文化の撫恤令。漂着船には必要な物資を与えて帰国させる方針)

問7:高田屋嘉兵衛(ゴローウニン事件の報復として国後島沖でロシアに抑留された淡路の商人)

問8:フェートン号(1808年、長崎に侵入したイギリス軍艦)

問9:アヘン戦争で清がイギリスに敗れ、南京条約で香港島の割譲や開港を強いられたと伝わると、幕府は同じ衝突を招く危険を悟った。無条件の打払いをやめ、漂着船には薪水や食料を与えて退去させる文化期の方針へ戻した。(100字)

史料(イ):1842年 天保の薪水給与令

異国船渡来の節、( A )無く打払ひ申すべき旨、( B )八年仰せ出され候。然ル処、当時万事御改正にて、( C )・寛政の御政事ニ復され、何事ニよらず御仁政を施されたしとの有り難き思し召しニ候。

右ニ付ては、外国の者ニても難風ニ逢ひ漂流ニて、食物・( D )を乞ひ候迄ニ渡り来り候を、其の事情相分からざるニ一図ニ打払ひ候ては、万国え対せられ候御処置とも思し召されず候。

これにより文化三年異国船渡来の節、取計らひ方の儀ニ付仰せ出され候趣ニ相復し候様仰せ出され候間、異国船と見受け候ハバ得と様子相糺し、食料・( D )等乏しく帰帆成り難き趣に候ハバ、望みの品相応ニ与へ帰帆致すべき旨申し諭し、もっとも( E )は致させまじく候。

現代語訳例

外国船が来航したときは、ためらわずに打ち払えという命令が、文政8年に出されました。しかし現在は万事を改革している最中で、享保・寛政の政治に立ち返り、何事につけても仁政を施したいという、ありがたい思し召しです。

そうであれば、外国の者であっても、暴風に遭って漂流し、食べ物や薪水を求めてやってきただけの船を、事情も確かめずに一律に打ち払うのでは、諸外国に対する態度として適切とは思えません。

そこで、文化3年に外国船が来航した際の取り扱いについて出された方針に立ち返るよう命じます。外国船を見かけたら、よく様子を確かめ、食料や薪水が不足して帰れない様子であれば、必要な品を相応に与えて帰帆するよう申し渡しなさい。ただし、上陸だけはさせてはいけません。

天保13年(1842年)の薪水給与令です。文中に「文政8年」「文化3年」と二つの年号が出てくるので、頭の中で整理しておく必要があります。

  • 文化3年(1806年):文化の撫恤令(=文化の薪水給与令)。漂着した外国船に薪水・食料を与えて帰国させる
  • 文政8年(1825年):異国船打払令。事情を問わず外国船を打ち払う。背景にフェートン号事件などの強奪事件。
  • 天保13年(1842年):薪水給与令。文化3年の方針に戻す。背景にアヘン戦争

つまり天保の薪水給与令は、1806年の文化の薪水給与令への回帰です。問6がこの文化の薪水給与令こと「文化の撫恤令」(ぶじゅつれい)を選ばせる設問でした。

「享保・寛政の御政事ニ復され」というのは天保の改革のスローガンです。水野忠邦が享保・寛政の改革を手本としたことは頻出事項なので、ぜひ覚えてください。

薪水給与令は、「物資は与える、しかし上陸はさせない、開国はしない」のラインです。

史料(ロ):1825年 異国船打払令

異国船渡来の節取計らひ方、前々より数度仰せ出されこれ有り。をろしや船の儀に付ては、文化の度改めて相触れ候次第も候処、いきりすの船、先年長崎におゐて狼藉に及び、近年は所々え小船ニて乗り寄せ、( D )・食料を乞ひ、

……追々横行の振舞、其の上邪宗門勧め入れ候致し方も相聞こえ、かたがた捨て置かれ難き事ニ候。

一体いきりすニ限らず、南蛮・西洋の儀は、御制禁邪教の国ニ候間、以来いずれの浦方ニおゐても、異国船乗寄せ候を見受け候ハバ、其の所ニ有合せ候人夫を以て、有無に及ばず、一図ニ打払ひ、逃げ延び候ハバ、追船等差出すに及ばず、其の分ニ差置き、若し押して( E )致し候ハバ、搦め捕り、又は打留め候ても苦しからず候。

現代語訳例

外国船が来航したときの取り扱いについては、これまで何度も命令を出してきました。ロシア船については文化年間に改めて触れを出しましたが、イギリス船は先年長崎で乱暴(=フェートン号事件、1808年)を働き、近年は各地に小船で乗りつけて薪水や食料を求めています。

……次第に横暴な振る舞いが目立ち、その上キリスト教を勧めているという話も聞こえてきます。どちらにしても放置できることではありません。

そもそもイギリスに限らず、南蛮・西洋の国々は禁制のキリスト教の国ですから、今後はどこの浦であっても、外国船が近づいてくるのを見かけたら、その場に居合わせた人夫を動員し、事情を問わず一律に打ち払いなさい。逃げていくなら追跡船を出すには及ばず、そのまま放っておきなさい。もし強引に上陸してきたなら、捕縛しても、討ち取ってしまってもかまいません。

文政8年(1825年)の異国船打払令、いわゆる無二念打払令です。

「先年長崎におゐて狼藉に及び」とあるのは、文化5年(1808年)のフェートン号事件のこと。ナポレオン戦争の余波で、イギリス軍艦がオランダ船を狙って長崎港に侵入した事件です。問8で問われました。

問7で問われた高田屋嘉兵衛も、この時期の対外緊張を象徴する人物です。1811年、幕府が国後島でロシア軍艦の艦長ゴローウニンを捕らえました。その報復として、翌年ロシアが抑留したのが淡路出身の廻船商人・高田屋嘉兵衛でした。嘉兵衛はカムチャツカで越冬したのち、両者の仲介役を務めてゴローウニンの釈放にこぎつけています。

こうした事件の積み重ねが、無条件打払いという強硬策につながりました。そして1840年に始まったアヘン戦争で清がイギリスに敗れたという情報が伝わると、幕府は方針を転換します。それが、史料(イ)の天保の薪水給与令です。

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ここからは大問1~3です。

大問1:中世・近世の仏教

(イ) 鎌倉時代には仏教の革新運動が起きた。その中で【明恵】は、京都の高山寺を拠点に戒律を復興し、華厳宗の再建に努めた。【忍性】は戒律と真言密教を掲げ、奈良に北山十八間戸を建設した。南宋で禅宗を学んで帰国した栄西は、禅による護国を説き、鎌倉の【寿福寺】(語群になし)の開山となった。その後、北条時宗が南宋から【無学祖元】を招いて鎌倉の【円覚寺】を創建するなど、禅宗は発展を遂げた。

(ロ) 浄土宗を開いた法然は、専修念仏による極楽往生を説き、【九条兼実】の求めで「選択本願念仏集」を著した。法然の弟子の親鸞は悪人正機説を唱え、同説は唯円が著した「【歎異抄】」(語群になし)でも確認できる。日蓮は法華経を信仰しなければ国難を招くとし、建白書の「【立正安国論】」を【北条時頼】に提出した。道元は坐禅こそが仏法と説いたが、その思想は「【正法眼蔵】」に記録され、曹洞宗の根本聖典とされている。

(ハ) 戦国時代になると、浄土真宗や日蓮宗が独立した教団としての姿を一層明確にした。【加賀】国では浄土真宗の門徒が国人と手を結び、1488年に守護の【富樫政親】を倒した。日蓮宗は宗論を通じて勢力を拡大したが、天文期に【近江】国(語群になし)を本拠とする六角定頼の支援を得た延暦寺と衝突して敗れ、京都の日蓮宗寺院が焼き払われた。一方、吉田兼倶は【唯一】神道を創唱し、京都の吉田社を拠点に影響力を拡大した。

(ニ) 江戸時代には幕府による寺社の統制が進み、檀家の人々がキリシタンでないことを檀那寺が証明する【寺請】制度の成立をみた。日蓮宗【不受不施】派は、【寺請】を禁止されるなど、幕府から弾圧を受けた。海外の文化の流入は制限されたが、明の禅僧である【隠元隆琦】が黄檗宗を伝え、宇治に【万福寺】を開創した。

大問1:解答一覧

(イ) A:明恵 B:忍性 C:0(寿福寺、語群にない) D:無学祖元 E:円覚寺

(ロ) F:九条兼実 G:0(歎異抄、語群にない) H:立正安国論 I:北条時頼 J:正法眼蔵

(ハ) K:加賀 L:富樫政親 M:0(近江、語群にない) N:唯一

(ニ) O:寺請 P:不受不施 Q:隠元隆琦 R:万福寺

大問2:第二次世界大戦後の日本と東南アジア

(イ) 第二次世界大戦後の日本では民主化政策がつぎつぎに実施され、各政党もあいついで復活ないし結成された。1945年10月には、GHQの指令で出獄した徳田球一らを中心に、【日本共産党】が合法政党として活動を開始した。11月には、旧無産政党を統合した【日本社会党】(語群になし)や、旧【立憲民政党】系で翼賛体制下には大日本政治会に属していた議員を中心とする【日本進歩党】が、それぞれ結成された。さらに、12月には労使協調を掲げる【日本協同党】(語群になし)が誕生した。

(ロ) 1945年10月に【幣原喜重郎】(語群になし)内閣はGHQに憲法改正を指示され、【松本烝治】を委員長とする憲法問題調査委員会を政府内に設置した。さらに、【高野岩三郎】らによる民間の憲法研究会は「憲法草案要綱」を発表し、GHQも参照した。1946年2月にGHQは憲法の草案を日本政府に提示し、政府は改正案を作成したが、衆議院の審議段階で【芦田均】の発案により、第9条第2項に修正が施された。同年4月には戦後初の総選挙が実施されたが、第一党となった日本自由党総裁の【鳩山一郎】は、翌5月に公職追放処分を受けた。

(ハ) 第二次世界大戦下で日本軍に占領された東南アジア各地は、民族運動や抗日運動を基礎に、戦後は独立に向かった。フランス領インドシナ連邦のベトナムでは【ホー=チ=ミン】が日本占領下でベトナム独立同盟会を組織し、1945年9月に【ベトナム民主共和国】の成立を宣言した。これに対し、フランスは独立を認めず、【バオダイ】を元首に【ベトナム国】を作らせたが、1955年には【ゴ=ディン=ジエム】が【バオダイ】を追放して【ベトナム共和国】を樹立した。

大問2:解答一覧

(イ) A:日本共産党 B:0(日本社会党、語群にない) C:立憲民政党 D:日本進歩党 E:0(日本協同党、語群にない)

(ロ) F:0(幣原喜重郎、語群にない) G:松本烝治 H:高野岩三郎 I:芦田均 J:鳩山一郎

(ハ) K:ホー=チ=ミン L:ベトナム民主共和国 M:バオダイ N:ベトナム国 O:ゴ=ディン=ジエム P:ベトナム共和国

大問3:近代の社会運動

第一次世界大戦中の労働者の増加により、労働運動が高揚し、労働争議の件数も増加した。例えば、1912年に鈴木文治により労働者の地位向上や福祉の増進をめざす団体として結成された【友愛会】は、本格的な労働組合へと発展し、1921年には【日本労働総同盟】と改称された。小作料の減免を要求する小作争議も1921年から急増し、1922年には小作人組合の全国組織である【日本農民組合】が結成された。この組織の設立者の一人である【賀川豊彦】はキリスト教社会主義者で、著書「死線を越えて」によって、その伝道体験を描いた。

社会的に差別された女性の解放をめざす運動は、1911年に平塚らいてう(明)らによって結成された文学者団体【青鞜社】に始まり、平塚と市川房枝らが1920年に設立した【新婦人協会】は、女性の参政権獲得や【治安警察】法第5条の改正を求めた。1921年には、女性社会主義者団体である赤瀾会も結成された。この団体の創設者の一人である【山川菊栄】は、第二次世界大戦後、初の労働省婦人少年局長となった。

大問3:解答一覧

:友愛会(結成時は15名ほどの小さな共済団体だった)

:日本労働総同盟(1919年に大日本労働総同盟友愛会と改称した後、さらに改称した)

:日本農民組合(結成地は神戸。杉山元治郎が初代組合長を務めた)

:賀川豊彦(神戸のスラムに住み込んで伝道と救済にあたった)

:青鞜社(機関誌「青鞜」創刊号の「元始、女性は太陽であった」が有名)

:新婦人協会(1922年に治安警察法第5条の一部改正を実現したが、内部対立から同年12月に解散した)

:治安警察(第5条は女性の政党加入と政談集会への参加を禁じていた。改正で認められたのは集会への参加のみで、結社への加入禁止は残った)

:山川菊栄(夫は社会主義理論家の山川均)

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