慶應文学部2022日本史解答解説:史料問題現代語訳|平安京と富岡製糸場

慶應義塾大学文学部の日本史では、毎年のように史料問題が出題されます。

2022年の大問4は、平安時代の信仰と都市をめぐる5つの史料、大問5は富岡製糸場に関する明治初期の公文書です。

それぞれ現代語訳と背景の解説をつけていきます。

なお大問1〜3は後半に解答だけ載せておきます。

教学社
¥2,420 (2026/08/30 04:47時点 | Amazon調べ)

大問4:平安京の信仰と都の姿

出典は順に「沙石集」「日本三代実録」「方丈記」「池亭記」「愚管抄」。

時代も中身もバラバラですが、平安京とそこに生きた人々の信仰の軸で並んでいます。

大問4:解答

問1:沙石集(鎌倉後期、無住が編纂した仏教説話集)

問2:来迎(阿弥陀如来や菩薩が現れ、往生を願う人を浄土へ迎えること)

問3:往生要集(恵心僧都=源信の著作)

問4:御霊会

問5:早良親王(崇道天皇。藤原種継暗殺事件に関わったとされ、無実を訴えながら死去した)

問6:福原京

問7:嵯峨天皇(三筆の一人)

問8:慶滋保胤(日本最初の往生伝「日本往生極楽記」の著者)

問9:白河

問10:上皇が自ら院庁を開いて政務の実権を握り、天皇を後見しながら政治を主導する院政という体制をとった。経済的には、上皇や寺院に寄進された荘園と、知行国として得る公領からの収入が基盤となった。(92字)

史料(イ)沙石集:臨終の作法と来迎

丹後国鳧鴨と云ふ所に、上人ありけり。極楽の往生を願ひて、万事を捨てて、臨終正念の事を思ひ、聖衆( A )の儀をぞ願ひける。……また恵心僧都の、脇息の上にて、箸を折りて、「仏の( A )」とて、引き寄せ、引き寄せして、案じ始め給ひたりと云ふ説も侍り。

丹後国の鳧鴨というところに、ある上人がいました。極楽往生を願い、世俗の事をすべて捨て、死に際に心を乱さずにいられるかどうかだけを気にかけ、阿弥陀仏と菩薩たちが来迎してくれることをひたすら願いました。

……また、こんな説もあります。恵心僧都は脇息の上で箸を折り、「これが仏のお迎えだ」と言いながら、その箸を手前へ手前へと引き寄せた。そうやって来迎の様子を思い描こうとしていたのだという。

出典は沙石集、鎌倉後期の僧である無住(むじゅう)が編纂した仏法説話集です。

面白いのは恵心僧都のくだりです。脇息の上で箸を折り、それを手前に引き寄せる。仏が浄土からこちらへ近づいてくる情景を頭のなかに描くために、手を動かしてイメージを練っていた、という話です。

源信といえば「往生要集」を書いた人物として名前だけ覚えられがちですが、こういう具体的な姿で出てくると印象に残ります。

以下はまさに来迎の様子ですね。

講談社
¥1,221 (2026/08/30 03:24時点 | Amazon調べ)

史料(ロ):貞観5年(863)の御霊会

廿日壬午、神泉苑に於て( B )を修す。勅して、左近衛中将従四位下藤原朝臣基経、右近衛権中将従四位下兼行内蔵頭藤原朝臣常行等を遣して、会の事を監せしむ。王公卿士、赴き集まりて共に観る。霊座六前、几筵を設け施し、花果を盛り陳べ、恭敬して薫修す。

5月20日(壬午の日)、神泉苑において御霊会が催されました。

天皇の命令により、左近衛中将の藤原基経と、右近衛権中将で内蔵頭も兼ねる藤原常行らが派遣され、会の運営を取り仕切りました。

王公卿や武士たちが集まり、共にこの儀式を見守りました。六つの霊の席が設けられ、几(ぎ≒机)や筵(むしろ≒敷物)が用意され、花や果物を盛って供え、うやうやしく法会を執り行われました。

出典「日本三代実録」が伝える、貞観5年(863年)5月20日の神泉苑での御霊会です。史料上で確認できる最初の御霊会にあたります。

政治的に失脚し、無実を訴えながら死んでいった人々の霊が祟りをなし、疫病を流行させている。そう考えた朝廷が、その霊を慰めるために催した法会でした。「霊座六前」(れいざろくぜん)とあると通り、祀られたのは6名です。

まとめると、疫病の原因とされる、冤罪6名の鎮魂祭です。

人物補足
早良親王(崇道天皇)藤原種継暗殺事件に連座
伊予親王桓武天皇の皇子
藤原吉子伊予親王の母
藤原広嗣or藤原仲成諸説あり
橘逸勢三筆の一人
文室宮田麻呂特になし

問5の「藤原種継暗殺事件に関わったとされた人物」は早良親王です。桓武天皇の弟でありながら事件に連座させられ、淡路へ配流される途中に亡くなりました。のちに崇道天皇の号を追贈されたのは、その祟りを恐れたからです。

この六所御霊は、後世になると吉備聖霊(吉備真備とされる)や火雷神などが加えられ、「八所御霊」として祀られるようになります。

ただし八所御霊の具体的な顔ぶれは神社によって異なり、伊予親王・観察使のかわりに井上内親王・他戸親王をあてる例もあります。

史料(ハ):福原遷都

予、ものの心を知れりしより、四十あまりの春秋を送れるあひだに、世の不思議を見る事、ややたびたびになりぬ。……又治承四年みな月の比、にはかに都遷り侍き。いと思ひの外也し事なり。をほかた、此の京のはじめを聞ける事は、( C )の天皇の御時都と定まりけるよりのち、すでに四百余歳を経たり。

現代語訳例

私が物事を理解できるようになってから、40年余りの歳月が過ぎましたが、そのあいだに、世の中の思いがけない出来事を何度も目にしてきました。

……治承4年の6月頃、都が突然移されました。まったく思いもかけない出来事です。そもそもこの京が都として定められたのは、嵯峨天皇の御代からで、すでに400年以上が経っています。

出典は鴨長明「方丈記」の一節、治承4年(1180年)の福原遷都です。鎌倉時代直前ですね。

平清盛の主導で摂津国福原へ都が移されました。平氏の権勢を示すとともに、日宋貿易の拠点である大輪田泊に近い立地を活かす狙いがあったとされます。

しかし貴族や寺社の反発が強く、各地で反平氏の動きも起きたため、約半年後には平安京へ戻されました。

ひとつ注意点があります。「嵯峨天皇の御代に都と定まった」というのは鴨長明の認識であって、史実ではありません

平安遷都は延暦13年(794年)、桓武天皇によるものです。ではなぜ嵯峨天皇なのか?

平城太上天皇の変(薬子の変)を経て平安京が動かぬ都として確定した、という理解が当時あったのだと考えられます。設問7は指示どおり嵯峨天皇を答えさせますが、遷都した天皇を問われれば桓武天皇です。混同しないように。

完全に余談ですが、英語で読んでみるくらい方丈記が好きで、たびたび読み返しています。短いのでみんなも方丈記読んでみてね。

小学館
¥715 (2026/08/30 03:48時点 | Amazon調べ)

史料(ニ):京都の右京衰退と左京集中、慶滋保胤が見た都の東西

予、二十余年以来、東西二京を歴見するに、西京は人家漸く稀にして殆ど幽墟に幾し。……東京の四条以北、乾艮の二方は、人人貴賤となく、多く群聚する所なり。高家は門を比べ堂を連ね、小屋は壁を隔て簷を接ふ。

この20年あまり、東の都と西の都を見て回りました。西京のほうは人家がどんどん減って、もはや廃墟同然です。

一方、東京の四条より北、とくに北西と北東の一帯は、身分の高い人から低い人まで多くの人が集まる場所になっていました。裕福な家は立派な門や堂を建て競い合い、小さな家は壁を隔てて軒先を並べていました。

出典は慶滋保胤(よししげ の やすたね)「池亭記」(982年)です。

ここでいう「東京」「西京」は、東国と西国のことでも、京都と鎌倉のことでもありません。平安京の左京と右京です。

平安京は当初、朱雀大路をはさんで左京・右京がほぼ対称に設計されていました。

右京側は低湿地で住みにくい一方、左京側は鴨川に近く水運や物流の便など、暮らしていく上で何かと都合がよかったのです。

条坊制という図面上の均整より、こうした実利が勝ったわけです。人口は左京の北部へ偏り、四条以北に貴賤を問わず人が密集するようになりました。平安京の都市機能が左京側へ集中していくという、後の京都につながる構造が、この時期にはっきりしてきます。

ちなみに、右京が西、左京が東です。地図とは逆なので注意してください。

京都大学(国立)、京都工芸繊維大学(国立)、京都府立大学(公立)など、京都の有名大学も左京(東)に多いですね。

慶滋保胤は問8で問われたとおり「日本往生極楽記」の著者としても頻出です。

往生を遂げた人々の伝記を集めたもので、浄土教の広がりを示す書物です。

史料(ホ):白河と六勝寺

(D:白河)に法勝寺たてられて、国王のうぢでらにこれをもてなされけるより、代々みなこの御願をつくられて、六勝寺といふ(D:白河)の御堂、大伽藍うちつづきありけり。

白河の地(現在の京都市左京区岡崎周辺)に法勝寺が建てられ、これを天皇家の氏寺として扱うようになった。それをきっかけに、代々の天皇がこの地に御願寺を建立し、六勝寺と呼ばれる白河の御堂や大伽藍が、次々と立ち並ぶことになった。

白河の地に法勝寺が建てられ、これを天皇家の氏寺として扱うようになった。それをきっかけに、代々の天皇がみなこの地に自分の願いを込めた寺を建てていき、六勝寺と呼ばれる白河の御堂や大伽藍が、次々と立ち並ぶことになった。

慈円「愚管抄」の一節です。

白河は平安京の郊外、鴨川を東に渡った地区(現在の京都市左京区岡崎あたり)を指します。白河天皇が承暦元年(1077年)に法勝寺を建立して以降、歴代の天皇や中宮が「勝」の字を含む御願寺を次々と造営しました。

寺名人物
法勝寺白河天皇
尊勝寺堀河天皇
最勝寺鳥羽天皇
円勝寺待賢門院
成勝寺崇徳天皇
延勝寺近衛天皇

これを六勝寺と総称します。院政期には離宮も置かれ、白河は事実上の政治の舞台にもなりました。

中学生の自分はイヤイヤ修学旅行で行きましたが、今だに観光地として行けるなんて、京都はなんて凄いんでしょう。

問10が「史料(ホ)の内容と関わる時期における政治形態と経済的基盤」を問うているのは、この地区が院政と直結しているからです。

政治形態は院政です。天皇を退いた上皇が自ら院庁を構え、天皇を後見するという形をとりながら、実際には政治の実権を握りました。院近臣を登用し、北面の武士を組織して、朝廷の外から政局を主導したわけです。経済的な基盤は荘園公領制と呼ばれる仕組みです。

上皇や上皇が建てた寺院には荘園の寄進が集中し、あわせて知行国という形で公領からの収益も得ていました。八条院領や長講堂領がその代表で、莫大な造寺造仏ができたのも、この経済力があってこそでした。

芸人奥田さんのYoutubeでもここら辺の花井をしていますね。(11:10〜)

大問5:富岡製糸場と開拓使

明治6年(1873年)、開拓使からの問い合わせに大蔵省が回答した文書です。

北海道開拓を担う開拓使が、富岡製糸場へ女性を派遣して技術を学ばせたいと申し出た、その返答にあたります。

大問5:解答

問1:(i) 黒田清隆 (ii) 薩摩藩

問2:フランス

問3:工女

問4:内務省

問5:三井

問6:開港以来、生糸は最大の輸出品だったが、粗製濫造で品質が低下していた。政府はフランスから機械と技術者を招いて官営模範工場を設け、洋式製糸技術を各地へ広める拠点とした。集めた工女に技術を習得させ、品質向上と輸出拡大による外貨獲得をめざした。(118字)

大問5:大蔵省から開拓使への手紙

㊞(黒田) ㊞(西村)

開拓使御中  大蔵省

「上州富岡製糸場へ修行のため婦女子十五名程御使費を以て差し遣わされたく候間、手順且つ入費等詳細御承知なされたき」旨御申し越しの趣、承知致し候。入費之儀ハ別紙取り調べ差し進め候間、委細書面にて御承知なさるべく候。手順之儀ハ直ニ富岡表へ御差し向け相成り候方然るべく候えども、いよいよ御治定相成り候ハバ、御差し出し以前名前人員等御申し越しこれあり候ハバ、尚注意富岡表へ相達すべく候。此の段回答に及び候也。

明治六年六月四日

開拓使御中 大蔵省

「上州の富岡製糸場へ技術を学ばせるため、女性を15名ほど、こちらの経費で派遣したい。ついては手続きと費用について詳しく知りたい」とのお申し出、承知いたしました。

費用の件については、別紙で詳しく調べてお送りしますので、そちらでご確認ください。

手続きについては、まず富岡製糸場へ直接お申し出いただくのが良いでしょう。しかし、正式に決定された際には、派遣する方々の氏名や人数などを事前に連絡ください。こちらから富岡製糸場へ話を通しておきます。

以上、回答とさせていただきます。

明治6年6月4日

開拓使が富岡製糸場で女性に製糸技術を学ばせたいという要望を大蔵省へ出し、その手続きや費用について回答しているものです。

冒頭の「黒田」の印は、開拓使の次官だった黒田清隆のものです。薩摩藩出身で、後に第2代内閣総理大臣になる人物。開拓使官有物払下げ事件では、開拓使長官としてこの一件の中心に立つことになります。

読んでいて味わい深いのは、役所どうしのやりとりの生々しさです。費用は別紙で、手続きは直接富岡へ、ただし決まったら事前に名簿をくれれば先方に話を通しておく。

150年前の文書ですが、今の役所の返答と変わりませんね。

富岡製糸場をめぐる論点

明治5年(1872年)に操業を開始した官営模範工場です。史料はその翌年ですから、まだ動き出したばかりの時期にあたります。

政府が多額の費用を投じてこの工場を建てた理由は、生糸です。開港以来、生糸は日本の輸出を支える最大の輸出品でした。ところが需要の急増に生産が追いつかず、粗製濫造で品質が落ちる。海外での評価が下がれば、外貨獲得の柱そのものが崩れます。

そこでフランスから機械とポール・ブリューナら技術者を招き、洋式の器械製糸を導入した模範工場をつくりました。ここで技術を身につけた工女が各地に戻り、洋式製糸技術を広めていく。技術を全国へ波及させる拠点としての役割が期待されていたわけです。

開拓使が女性の派遣を申し出たのも、この文脈で読めます。北海道で製糸業を興すには、まず技術を持った人材が要る。中央の官営工場がその供給源として機能していたことが、この一通の文書から見えてきます。

最終的には三井へ払い下げ

富岡製糸場は当初、大蔵省の管轄でした。それが史料の翌年、明治7年(1874年)に内務省へ移管されます。

内務省は明治6年11月に設置されたばかりの官庁で、大久保利通のもとで殖産興業政策を推し進める中核官庁として機能しました。

その後、明治26年(1893年)に三井へ払い下げられ、官営から民営へ移ります。

工女の労働環境と「女工小唄」

工女たちの労働条件については、後の製糸業の実態と混同しないよう注意が必要です。

官営期の富岡は模範工場という性格上、労働時間や待遇が比較的整えられていました。

集められたのは各地の士族の娘が中心で、技術を学んで郷里に持ち帰ることも期待された、いわば洋式製糸の伝習所としての性格も持っていました。

「女工哀史」や「あゝ野麦峠」が描くような過酷な労働環境は、主に明治後期から大正期にかけて民間製糸業が急拡大するなかで生まれたものです。同じ「工女」でも、時期と工場によって置かれた状況はまるで違います。

それではお聞きください、富岡小唄。

続けて、女工小唄。「門番コレラで死ねばよい」でお馴染みです。

山川出版社
¥1,100 (2026/08/29 01:38時点 | Amazon調べ)

大問1:古代〜現代の交通

(イ) 10世紀前半に【醍醐】天皇の命で編纂された「延喜式」には、全国の【駅家】が記載されている。【駅家】は中央と地方を結ぶ官道に約16kmごとに設けられ、広域的な陸上交通制度の一環をなした。海上交通では12世紀頃から各地の湊に【問】が発達し、商品の中継と委託販売などを担った。売買手段には貨幣が多く用いられるようになり、主として【宋銭】が利用された。

(ロ) 江戸幕府は陸上交通の整備に注力し、幹線道路は17世紀半ばから【道中奉行】が管理した。陸上交通では御用通行が優先され、【問屋場】における宿役人は【継飛脚】が輸送する公用の書状、荷物の継ぎ送りに従事した。物資の大量輸送のために水上交通の利用も拡大し、京都の豪商【角倉了以】は富士川などの水路開発に貢献した。

(ハ) 1870年設置の【工部省】を中心に鉄道の敷設が進展し、1880年代からは民営鉄道の建設も盛んになった。これら民営鉄道のうち主要幹線は、1906年に【西園寺公望】が率いる内閣の下で国有化された。政府は地方の交通インフラ整備にも着手し、1882〜84年に福島県令を務めた【三島通庸】による会津三方道路の建設を一例に挙げることができる。日露戦争後には日本の満州進出が本格化し、南満州鉄道株式会社が設立された。同社はロシアから譲り受けた【長春】・旅順間の旧東清鉄道などを経営した。

(ニ) 【1956】年度の「経済白書」は「もはや戦後ではない」と記し、【岩戸】景気の下で政府は国民所得倍増計画を定めた。大衆消費社会の到来で自家用車が普及し、【いざなぎ】景気が続く1969年には【東名高速道路】が全通した。

大問1:解答一覧

(イ) A:醍醐 B:駅家 C:問 D:宋銭

(ロ) E:0(道中奉行、語群にない) F:問屋場 G:継飛脚 H:角倉了以

(ハ) I:工部省 J:西園寺公望 K:0(三島通庸、語群にない) L:長春

(ニ) M:1956 N:岩戸 O:いざなぎ P:東名高速道路

大問2:中世の天皇と戦乱

(イ) 【保元の乱】の2年後に父から位を譲られた【二条】天皇は末代の賢王として知られる。遊興にふける父が天皇の位を得たのも、才能を期待された【二条】への中継ぎとしてであった。【平治】の乱に際しては、首謀者の【藤原信頼】の手を逃れて平清盛邸に移ったことで、【藤原信頼】の敗北が決定的となった。その後は父との二頭政治を経て、武力を握る清盛の支持も背景に実権を掌握したが、親政4年弱、23歳で病死した。

(ロ) 【承久】の乱後に幕府が位につけた【後堀河】天皇の子四条天皇は、周囲の大人に対して仕掛けた悪戯に自ら引っ掛かって夭折してしまう。跡を継いだ又従兄の【後嵯峨】天皇も、父が【承久】の乱に関与しなかったことから幕府に選ばれた天皇だった。彼は初め【後深草】天皇に跡を譲って院政を行うが、最終的にはその弟を後継者としたことで、南北朝内乱の遠因を作った。

(ハ) 【後小松】天皇は、南朝から三種の神器を回収して皇統の再統一を果たすが、譲位後に子の称光天皇に先立たれ、「看聞日記」で知られる又従兄【貞成】親王の子後花園天皇へと皇統が移ることになる。後花園天皇は【嘉吉の乱】に際し、将軍を暗殺した赤松氏討伐を命じる綸旨を発して、動揺する幕府を側面から支え、【応仁】の乱に際しては東軍本陣となった将軍御所に移り、そこで死去した。

(ニ) 戦国時代の天皇は幕府から資金提供を受けられなくなり、【正親町】天皇の即位の儀式も、父の跡を継いで3年後にようやく安芸の大名【毛利元就】の援助を受けて挙行する。織豊政権の下で【正親町】とその孫【後陽成】天皇は財政的安定を享受する一方、敵対勢力との講和仲介などで征服事業に協力する。さらに、秀吉が大内裏跡に築いた【聚楽第】に【後陽成】天皇が行幸し、諸大名を集めて秀吉への忠誠を誓わせる場として利用させるなど、支配体制の構築にも貢献した。

大問2:解答一覧

(イ) A:0(保元の乱、語群にない) B:二条 C:平治 D:藤原信頼

(ロ) E:承久 F:後堀河 G:後嵯峨 H:後深草

(ハ) I:後小松 J:貞成 K:0(嘉吉の乱、語群にない) L:応仁

(ニ) M:正親町 N:毛利元就 O:後陽成 P:聚楽第

大問3:元禄文化

17世紀後半の日本では、支配体制の安定化を背景に、幕府や藩の文化事業が進展した。幕府の命を受けた林羅山・鵞峰は歴史書の編纂に従事し、その成果は1670年に「【本朝通鑑】」310巻として結実した。徳川光圀は「大日本史」の編纂に着手し、同事業のための編纂局を【彰考】館と名付けた。この館名は「春秋左氏伝」序の語句に由来している。また、徳川家綱を補佐した会津藩主の【保科正之】は、1664年に私塾を同藩の学問所に取り立てた。岡山藩主の池田光政も1668年に郷学の【閑谷】学校を設けるなど、学問の振興を図った。

一方、民間では歌舞伎が流行したが、幕府による女歌舞伎の禁止に続いて、少年の演じる【若衆】歌舞伎も幕府により1652年に禁止されたため、野郎歌舞伎が演じられた。また、上方の文芸も独自の隆盛を見せるようになる。その代表的人物の一人とされる井原西鶴は、西山宗因を祖とする【談林】派の俳人として活躍した他、「好色一代男」等の好色物、「武家義理物語」等の武家物、「世間胸算用」等の【町人】物といった【浮世】草子の作品を残した。

大問3:解答一覧

:本朝通鑑(漢文の編年体=時系列。中国の「資治通鑑」にならった書名で、紀伝体=特定の人物に注目の大日本史とは形式が異なる)

:彰考館(大日本史の編纂は1657年に始まり、完成は明治39年。250年におよぶ事業だった。壮大!!)

:保科正之(3代将軍家光の異母弟。私塾の稽古堂を藩の学問所とし、これがのちの日新館につながる)

:閑谷学校(武士だけでなく庶民にも門戸を開いた点が特徴。現存する講堂は国宝)

:若衆歌舞伎(前髪を剃り落とすことを条件に翌1653年に再開が許され、野郎歌舞伎となった)

:談林派(自由で奇抜な作風。のちに松尾芭蕉が蕉風を確立して主流が移る)

:町人物(「日本永代蔵」など。町人の金銭をめぐる生き様を描いた)

:浮世草子(西鶴の「好色一代男」が最初の作品とされ、後に八文字屋本へ引き継がれる)

KADOKAWA
¥574 (2026/08/30 08:01時点 | Amazon調べ)

教学社
¥2,420 (2026/08/30 04:47時点 | Amazon調べ)

\ お知らせ /

この記事を書いた慶應専門塾GOKOでは、一緒に慶應義塾大学を目指す生徒を募集をしています。

完全マンツーマンで密度の濃い授業を、オンラインで全国の受験生へお届けしております。

慶應を目指す受験生(とその保護者の方)は、以下よりお問い合わせください。

  • 全国どこからでもオンラインで受講可
  • 完全個別のマンツーマンコース
慶應専門塾GOKO
塾長 吉中

初回ご面談は私が担当させていただきます。

以下のお問い合わせページよりご連絡ください!







    お問い合わせ内容

    投稿者

    GOKO編集室
    GOKO編集室
    GOKOでは慶應義塾大学に進学したい受験生のために、役立つ情報の発信をおこなっています。こんな記事が読みたいなど、希望がありましたらお問合せページよりご連絡ください。