慶應文学部2024日本史解答解説:史料問題の現代語訳と背景知識 | 鎌倉北条家とバブル経済
慶應文学部の2024年日本史の史料問題を全文現代語訳付きで解説しています。
2024年の大問4は鎌倉時代の北条家、大問5は前川レポートからバブル経済がテーマでした。
大問4:北条家の人々
鎌倉時代の北条家がメインテーマです。文学部の記述で同じテーマが出たのは2015年以来の印象です。
大問4:解答例
問1:平賀(史料(イ)の「朝雅」は平賀朝雅のこと)
問2:源実朝
問3:執権(遠州=北条時政が実朝を後見し、初代となった役職)
問4:北条政子
問5:国衙行政の実務を担当した者で、地方豪族が任命された。
問6:長崎高資
問7:後醍醐天皇
問8:令旨
問9:評定衆(義時の子・北条泰時が創設した合議機関)
問10:北条時政は実朝の廃立を図って失脚したが、義時は承久の乱で朝廷を破り、執権政治を発展させた。そのため得宗の呼称は、家の初代である時政ではなく義時の法名にちなんだと考えられる。
史料(イ):牧の方事件
牧御方が姦謀を廻らし、朝雅を以て関東将軍となし、当将軍家(時に遠州亭に御坐す)を謀るべきの由、その聞こえあり。仍て尼御台所……羽林を迎え奉られ、即ち(北条義時)亭に入御す……遠州俄かに以て落飾せしめ給う(年六十八)。
【現代語意訳】
牧の方(北条時政の妻)が陰謀をめぐらし、平賀朝雅を関東将軍に立てて、現在の将軍家(源実朝。このとき遠州=時政の館にいらっしゃる)を害そうとしている、という噂が流れた。
そこで尼御台所(北条政子)は……羽林(=将軍源実朝)をお迎え申し上げ、ただちに北条義時の館へお移しになった。……遠州(北条時政)は急遽出家させられた(時に68歳)。
現代語訳例
「吾妻鏡」にある「牧の方事件」の一場面です。
北条時政の後妻である牧の方が、娘婿の平賀朝雅を将軍に立てようとし、源実朝の排除を画策しました。
最終的に企ては失敗し、時政は失脚、出家させられました。
北条時政→義時→泰時という親子三代の流れは、そのまま鎌倉幕府の権力が確立していく過程でもあります。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は義時が主人公、その姉が北条政子です。

史料(ロ):護良親王令旨
伊豆国在庁(北条時政)の子孫東夷等、承久以来、四海を掌に採り、朝家を蔑如し奉るの処、頃年の間、殊に、高時相模入道の一族、ただに武略芸業を以て朝威を軽んずるのみならず、剰え当今皇帝を隠州に左遷し奉り、宸襟を悩まして国を乱すの条、下剋上の至り、甚だ奇怪の間、且つは成敗を加えんがため、且つは還幸を成し奉らんがため、西海道十五箇国の内の群勢を召し集めらるるところなり。
出典は「太山寺文書」。護良親王の令旨です。
【現代語訳:意訳】
伊豆国の在庁官人であった北条時政の子孫である東夷(東国の武士たち)は、承久の乱以来、天下を思うままに支配し、朝廷を軽んじてきた。とりわけ近年、北条高時とその一族は、武力をもって朝廷の権威を軽んじるだけでなく、あろうことか今上の天皇(後醍醐天皇)を隠岐へ流し申し上げ、天皇のお心を悩ませて国を乱している。
これは下剋上のきわみであり、まことに奇怪なことである。よって彼らを討伐するため、また天皇のご帰還を実現するため、西海道十五か国の兵を召し集めるものである。
鎌倉幕府末期、後醍醐天皇の皇子である護良親王が、幕府の専横を非難して倒幕を呼びかけた文書です。
北条氏一族の専横、朝廷軽視、そして天皇の隠岐配流を並べ立てることで、倒幕の正当性を主張しています。
北条高時は第14代執権です。北条〇〇としては最後の執権と言えるかもしれませんが、歴史的には「最後の執権」ではありません。
幕府最後の執権は第16代・赤橋守時で、高時が最後にあたるのは得宗(北条氏嫡流の当主)です。ここは混同しやすいので注意してください。実際の幕政では、得宗である高時のもとで、その被官である内管領・長崎高資らの影響力が強まっていました。
ちなみに史料の「高時相模入道」は、相模守を務めた後に出家した北条高時を指す呼び方です。
北条高時は鎌倉幕府滅亡の象徴的な存在として扱われがちで、漫画「逃げ上手の若君」第1話でも暗君として描かれています。

史料(ハ):青砥左衛門の裁き
或時、徳宗領二沙汰出来テ、地下ノ公文ト相模守ト訴陳二番事アリ。理非懸隔シテ、公文が申処道理ナリケレ共、奉行・頭人・(評定衆)皆徳宗領二憚テ、公文ヲ負シケルヲ、青砥左衛門只一人、権門ニモ不恐、理ノ当ル処ヲ具二申立テ、遂二相模守ヲゾ負シケル。
【現代語意訳】
あるとき、得宗家の所領をめぐって訴訟が起こり、現地の公文(荘園の実務役人)と相模守との間で、訴えと答弁の応酬が二度にわたって交わされた。
理非は明らかで、公文の言い分のほうが道理にかなっていた。それにもかかわらず、奉行・頭人・評定衆はみな得宗領であることをはばかって、公文を敗訴とした。
しかし青砥左衛門ただ一人が、権門を恐れることなく道理の通るところを詳細に申し立て、ついに相模守のほうを敗訴とした。
史料本文では「徳宗」と表記されていますが、教科書や入試の解答では「得宗」が一般的です。北条氏嫡流の当主を指します。
「相模守」は相模国の長官を意味する官職名で、鎌倉時代には得宗家の当主が就くのが慣例でした。北条高時が「相模入道」と呼ばれたのも同じ理由です。
「太平記」は青砥左衛門を北条時宗・貞時の頃の人物として描いているので、ここでの相模守もそのいずれかということになります。
内容的には、得宗家の所領をめぐって、得宗その人が訴訟の相手方になっている構図です。
つまり、得宗家当主を相手取った訴訟で、周囲の役人が得宗家の権力を恐れて公文を敗訴させたところに、青砥左衛門ひとりが道理を主張して判決を覆した、という話です。権力に屈しない人物像を描いた説話として読まれてきました。
なお青砥左衛門はこの「太平記」などに登場する人物で、後世には浮世絵や歌舞伎の題材にもなりました。ただし「吾妻鏡」には登場せず、実在の人物かどうかははっきりしません。
大問5:前川レポートとバブル経済
1986年4月にまとめられた前川レポート(正式名称「国際協調のための経済構造調整研究会報告書」)からの出題です。
前川レポートは、当時の内閣総理大臣・中曽根康弘の私的諮問機関である経済構造調整研究会がまとめた報告書です。座長を務めたのが元日本銀行総裁の前川春雄であったことから、「前川レポート」の通称で知られています。
すでに現代日本語ですが、段落ごとに噛み砕いていきましょう。
大問5:解答例
問1:60(昭和60年=1985年。この年のG5でドル高是正が合意された=プラザ合意)
問2:中曽根康弘
問3:ゴルバチョフ
問4:ジャパン=バッシング(経常収支不均衡のもとで欧米諸国が強めた対日非難)
問5:減量経営(石油危機以降、省エネルギー・人員削減・ME技術による自動化を進めた経営手法)
問6:為替
問7:ウルグアイ=ラウンド(1986年から始まったGATTの多角的貿易交渉)
問8:急速な円高を受けて政府が内需拡大へ舵を切り、超低金利政策を続けた結果、行き場を失った資金が不動産や株式市場に集中し、地価と株価が実態を超えるバブル経済が生じた。
プラザ合意後の円高で景気が悪化すると、政府は内需拡大のため低金利政策をとった。行き場を失った資金が株式や土地に集中し、地価と株価が急騰してバブル経済を招いた。
中曽根総理諮問の経緯
我々は昭和60年10月31日、内閣総理大臣から、我が国をめぐる近来の国際経済の環境変化に対応して、中期的な視野から、我が国の今後の経済社会の構造及び運営に関する施策のあり方を検討するよう要請を受けた。
私たちは1985年10月31日に、総理大臣(当時の中曽根康弘首相)から、最近の国際的な経済の変化に対応するために、日本の経済や社会の仕組み、運営方法をどう変えていくべきか、中長期的な視点で検討するよう要請を受けました。
「昭和60年」から答えさせる問題が出ています。昭和60年は1985年、プラザ合意が行われた年です。諮問がこの年の10月31日、報告書が翌1986年4月。プラザ合意の1985年と中曽根内閣はセットで覚えてください。
昭和年号の換算には裏技があります。西暦の下二桁から、以下の数字を引くと元号年になります。
| 元号 | 引く数 |
|---|---|
| 明治 | 67 |
| 大正 | 11 |
| 昭和 | 25 |
今回は85−25=昭和60年。
逆に足せば西暦が出ます。「明治6年の政変」なら6+67=1873年です。
経常収支不均衡は良くない
我が国の大幅な経常収支不均衡の継続は、我が国の経済運営においても、また、世界経済の調和ある発展という観点からも、危機的状況であると認識する必要がある。
日本の経常収支の黒字が大きく偏ったまま続いている状態は、日本の経済運営にとっても、世界経済が調和して発展していくためにも、危機的な状況だと認識する必要がある。
重要な箇所です。
当時の日本は輸出が絶好調で、海外に大量に売っていました。海外から受け取るお金が、海外へ支払うお金を大きく上回っている状態、これが経常収支の黒字状態です。
経常黒字があまりに膨らんだため、アメリカなどから「日本の稼ぎすぎだ」という批判を浴びるようになります。
アメリカの側から見れば、プラザ合意によってドル高を是正し(=ドル安・円高にし)、米国の貿易赤字を減らそうとした、ということになります。
内需主導型への転換
国際協調型経済を実現し、国際国家日本を指向していくためには、内需主導型の経済成長を図るとともに、輸出入・産業構造の抜本的な転換を推進していくことが不可欠である。同時に、適切な為替相場の実現及びその安定に努め、また、金融資本市場の自由化・国際化を一段と押し進めていく必要がある。
基幹的な農産物を除いて、内外価格差の著しい品目(農産加工品を含む)については、着実に、輸入の拡大を図り、内外価格差の縮小と農業の合理化・効率化に努めるべきである。
国際社会と協調する経済を実現し、国際国家としての日本を目指すためには、輸出頼みをやめて国内でお金が回るような経済成長へ切り替え、輸出入と産業の構造を根本から変えていく必要がある。同時に、為替レートを適切な水準に保って安定させ、金融市場の自由化・国際化をさらに進める必要がある。
基幹的な農産物を除き、海外との価格差が大きい品目(農産加工品を含む)については、着実に輸入を拡大し、価格差の縮小と農業の合理化・効率化を進めるべきである。
「内需主導型経済」とは、輸出に頼るのではなく、個人消費や住宅投資、設備投資といった国内の需要を中心に成長していく経済のことです。
国内で新しい商品やサービスが生まれ、企業が国内向けに投資する。そうやってお金が国内を循環する状態を目指します。
当時の日本は、海外に比べて国内製品、とくに農産品が高価でした。輸入を増やせば消費者は安く買えるようになり、日本の農業も競争にさらされて効率化する。そういう話です。
前川レポートとバブル経済
ここは因果関係を丁寧に押さえておきたいところです。
まず時系列を確認します。1985年9月のプラザ合意のあと、円高が急速に進みました。輸出企業が打撃を受け、景気の落ち込みが心配される。そこで日本銀行は1986年1月から公定歩合を引き下げていきます。前川レポートが提出されたのは、その後の1986年4月です。
雑にまとめると以下の通りですが、実際はもっと複雑です。
超低金利政策 → 銀行がお金を貸しまくる → 実態を超えた地価や株価 → バブル景気
受験レベルでは上記でもいいですが、もう少し詳しく知りたい場合は以下も読んでみてください。
低金利と資金余剰
円高による景気の落ち込みを抑えるため、金融緩和が続きます。具体的には、金利の引き下げや金融機関への資金供給量の増加などが実施されました。低金利が長期化し、市場には行き場を求める資金が積み上がりました。
金融自由化
金融市場の自由化が進み、銀行間の競争が激しくなります。大企業が銀行を通さず市場から直接資金を調達するようになったこともあり、銀行は新しい貸出先を探すようになりました。結果として、金融機関による過剰融資や不動産投機が進みました。
土地神話
低金利環境と金融緩和によって地価の上昇が続くなかで、土地の値段は下がらないという「土地神話」が広まりました。値上がりを見込んだ投機的な土地取引がさらに活発になります。
もう少し情報を入れてまとめると、
円高・景気対策 → 金融緩和 → 低金利と資金余剰 → 株式・不動産へ資金が流入 → 地価・株価の急騰 → バブル景気
という構図です。記述問題も、ここらへんをまとめれば点数になります。
前川レポートは、この流れのなかで内需拡大と金融・資本市場の自由化を後押しした文書として位置づけられます。
バブルを狙って書かれたものではありませんし、単独でバブルを生んだわけでもありません。
プラザ合意後の円高、金融緩和、金融自由化、内需拡大策。これらが同じ時期に重なった結果として、1980年代後半のバブル経済が形づくられていきました。
大問1:原始・古代の遺跡と遺物
空所補充後の本文
(イ) 日本列島の旧石器時代の石器には狩猟関係のものが目立ち、その代表例は槍先をはじめ多様な用途をもっていたと考えられる【ナイフ形石器】である。旧石器時代の終わり頃には組み合わせ式の【細石器】も広く定着した。縄文時代になると【石鏃】が狩猟用石器の中心になり、植物性食料の重要性が高まったことで、主に土掘り具として使用された【打製石斧】や、木の実などをすり潰す【石皿】などの石器が発達した。
(ロ) 弥生時代になると集団間の争いが生じるようになり、唐古・鍵遺跡のような【環濠集落】(語群になし)が広く定着し、瀬戸内一帯には紫雲出山遺跡や会下山遺跡などの【高地性集落】もつくられた。武器形の祭器も各地でみられるようになり、中後期には九州北部を中心に【銅矛】が大型化する。瀬戸内および山陰には【銅剣】の埋納遺跡が数多く存在し、300以上の【銅剣】が埋納された遺跡も見つかっている。
(ハ) 【埼玉県】(語群になし)稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣と【熊本県】江田船山古墳出土の銀象嵌銘鉄刀には、【雄略】天皇と考えられる同じ大王の名前が記されており、ヤマト政権の中心性が高まっていたことがうかがわれる。478年に宋の順帝に上表文を送った倭王【武】も【雄略】天皇であり、上表文では武力で日本列島の広い範囲を支配下に収めたことが主張されている。
(ニ) 乙巳の変の後、政府は東北の領域拡大のため、越国に【渟足柵】、続いて【磐舟柵】を築いた。日本海側では8世紀初頭に出羽柵、そして出羽国が置かれ、その後出羽柵は出羽国北部に移設され【秋田城】と改称された。太平洋側では、8世紀以降、多賀城を拠点に北上川沿いに城柵を築いていき、9世紀初頭には、その後長く鎮守府が置かれる【胆沢城】や、陸奥国最北の城柵【志波城】を構築した。
解答一覧
(イ) A:ナイフ形石器 B:細石器 C:石鏃 D:打製石斧 E:石皿
(ロ) F:0(環濠集落、語群にない) G:高地性集落 H:銅矛 I:銅剣
(ハ) J:0(埼玉県、語群にない) K:熊本県 L:雄略 M:武
(ニ) N:渟足柵 O:磐舟柵 P:秋田城 Q:胆沢城 R:志波城
大問2:大学別曹・藩校・お雇い外国人
空所補充後の本文
(イ) 古代の教育機関は、中央に大学、地方に国学が設置された。有力な氏族は一族の子弟の教育のために、大学に付属する寄宿施設のようなものである大学別曹を設置した。大学別曹には、和気氏の【弘文院】、藤原氏の【勧学院】、橘氏の【学館院】、在原氏や皇族の【奨学院】がある。この他に、空海が京都に設立した【綜芸種智院】(語群になし)が庶民に門戸を開いた。
(ロ) 近世には18世紀以降の各藩の藩政改革にともなって、藩士の子弟の教育のために藩校が設立・再興されることがあった。肥後藩主細川重賢が設立した【時習館】、米沢藩主上杉治憲が再興した【興譲館】、秋田藩主佐竹義和が設立した【明徳館】、さらに遅れて水戸藩主徳川斉昭が設立した【弘道館】(語群になし)はいずれも彼らの藩政改革の一環に位置づけられる。民間でも私塾が創設されたが、なかでも大坂の5人の町人の出資により設立された【懐徳堂】は後に準官学とされた。
(ハ) 幕末から明治期にかけて日本政府などによって招聘された外国人は、日本の学問の発展に大きく寄与した。芸術・美術の分野では、イタリア出身の彫刻家【V・ラグーザ】は、工部美術学校で彫刻を教えており、日本出身の夫人も画家として知られる。イタリア出身の画家【A・フォンタネージ】は、工部美術学校で洋画を教え、不忍池を題材とした風景画などを制作したが、約2年の在日期間の後、病気により帰国した。イタリア出身の銅版画家【E・キヨソネ】は、新しい技法によって、紙幣・切手・公債証書の原版を作成した。米国出身の美術研究家【フェノロサ】(語群になし)は、来日当初は東京大学で哲学や政治学を教授していたが、日本美術を評価して東京美術学校の創立にも関わり、帰国後はボストン美術館東洋部長を務めた。英国出身の建築家【J・コンドル】は、工部大学校で建築を教え、ニコライ堂や鹿鳴館を設計した。
解答一覧
(イ) A:弘文院 B:勧学院 C:学館院 D:奨学院 E:0(綜芸種智院、語群にない)
(ロ) F:時習館 G:興譲館 H:明徳館 I:0(弘道館、語群にない) J:懐徳堂
(ハ) K:V・ラグーザ L:A・フォンタネージ M:E・キヨソネ N:0(フェノロサ、語群にない) O:J・コンドル
大問3:江戸幕府の職制
空所補充後の本文
江戸時代の譜代大名は、幕府の役職に任じられて幕政を担った。彼らが奏者番と兼務で【寺社奉行】に任じられると、関八州外の訴状受理なども扱った。【寺社奉行】を務めた後、大坂城代、続いて【京都所司代】という要職に任じられる場合があった。【京都所司代】の初期の就任者としては、板倉【勝重】とその子の重宗が有名である。これらの要職を経験した後、老中に昇進する場合があったが、【寺社奉行】の後に【若年寄】を経て老中となる事例も確認できる。【若年寄】は老中の補佐役であり、旗本・御家人の監察を主要任務とした。
一方、旗本も幕府の役職に就任した。例えば【大目付】という役職は、老中のもとで大名や幕政の監察を主要任務とし、道中奉行を兼務するものであった。同じく旗本役である【勘定奉行】は、幕領の徴税・訴訟を管轄し、享保期に【公事】方と勝手方に分けられた。【寺社奉行】・【勘定奉行】・町奉行と【大目付】らは、幕府の最高司法機関である【評定所】の構成員として、複数の管轄にまたがる訴訟などに対応した。
解答一覧
A:寺社奉行(三奉行のうち唯一、将軍直属で大名が任じられる役職)
B:京都所司代(老中に次ぐ地位とされ、江戸中期以降は老中への出世コースとなった)
C:板倉勝重(初代京都所司代。裁定は判例集「板倉政要」に記録される)
D:若年寄(配下の目付を通じて監察を行い、大名を監察する大目付と対をなす)
E:大目付(町奉行や勘定奉行を務めた旗本が任じられることが多く、次第に名誉職化した)
F:勘定奉行(郡代・代官を指揮し、地方支配の実務も担った)
G:公事方(公事方は訴訟、勝手方は財政を分担。享保の改革では公事方御定書も編纂された)
H:評定所(三奉行に老中1名を加えた合議体は「評定所一座」と呼ばれた)
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