慶應文学部2022年:日本史史料問題の現代語訳
日本史史料問題の現代語訳です。
順次作成しますので、現代語訳希望の年度があればお知らせください。
なお、文学部をはじめ慶應の史料問題は、基本的に初見史料が出題されます。
勘所を押さえておくためにも下記のような典型史料問題集を一通りさらっておくことをオススメします。
慶應文学部2022年 日本史
大問4:平安末期の政治と信仰
(イ)沙石集からの抜粋
丹後国の鳧鴨というところに、ある上人がいました。極楽浄土へ往生することを願い、世俗の事をすべて捨て、臨終の際に正念を払い、聖衆来迎の儀を願いました。……また、恵心僧都が脇息に座って、箸を折り、「仏の来迎」と唱えながら、何度も繰り返して念じていたという説もあります。
沙石集:鎌倉後期の僧である無住(むじゅう)が編纂した仏法説話集
来迎:臨終の際に阿弥陀仏や菩薩が浄土の世界から死者の魂を迎えにくること
恵心僧都(えしんそうず)=源信:「往生要集」を書いた僧侶
(ロ)貞観5年(863)の御霊会
5月20日(壬午の日)、神泉苑において御霊会が催されました。朝廷から左近衛中将の藤原基経や右近衛権中将の藤原常行らがこの儀式を監督するよう命じられました。王公卿や武士たちが集まり、共にこの儀式を見守りました。霊が座る場所の前には、几(ぎ)や筵(むしろ)が敷かれ、花や果物が飾られ、恭敬の念を込めて香が焚かれました。
---出題はここまで----
律師の慧達が講師となり、『金光明経』の一巻と『般若心経』の六巻を講説しました。雅楽寮の伶人たちが音楽を奏し、天皇に仕える子供たちや名家の子供たちが舞を奉納しました。さらに、唐や高麗の舞も披露され、さまざまな曲芸や音楽が披露されました。この日、勅令が出され、神泉苑の四つの門が開かれ、都の人々が自由に出入りして、この儀式を見学することが許されました。
この御霊会で祀られた霊とは、崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、橘逸勢、文室宮田麻呂などのことです。彼らは、かつて何らかの罪に問われて処刑され、その怨霊が祟りとなり、近年疫病が流行し、多くの人々が亡くなったと考えられていました。人々は、この災いはこれらの霊の祟りによるものだと考え、京畿をはじめ、外国にまで広がり、夏や秋の季節になると必ず御霊会が催されるようになりました。この儀式では、仏に礼拝し経を読んだり、歌い踊ったり、子供たちが弓を射たり、力自慢の者が相撲を取ったり、騎馬術や馬の競走、そしてさまざまな芸能が行われました。これらを見物する人々で神泉苑は埋め尽くされ、遠方からも人々が集まり、やがて一つの風習となりました。
今年の春には咳を伴う疫病が流行し、多くの人々が亡くなったため、朝廷は祈りを捧げるためにこの御霊会を催したのです。
貞観5年の御霊会は、都で猛威を振るっていた疫病の原因とされる「霊座六前(れいざろくぜん)」と言われた6名の冤魂(無実の罪で死んだ者の霊)を慰めるために行われました。
問5にもなっている霊座六前は以下の6名です。
- 早良親王(崇道天皇)
- 伊予親王
- 藤原吉子(藤原大夫人 / 伊予親王の母)
- 藤原広嗣
- 橘逸勢(三筆の一人)
- 文室宮田麻呂
(ハ) 福原京への遷都について
私が物事を理解できるようになってから、40年余りの歳月が過ぎましたが、世の中の不思議な出来事に何度も遭遇しました。
……治承4年の5月の頃、都が突然移されました。思いもかけない出来事です。そもそもこの京が都として定められたのは、嵯峨天皇の御代からで、すでに400年以上が経っています。
福原京:平安時代末期の治承4年(1180年)、平清盛の主導で造営が進められ約半年だけ存在した日本の首都。
(二) 慶滋保胤(よししげ の やすたね)が見た東西の都
この20年以上、東の都と西の都を見て回りましたが、西の都は、ほとんど人が住んでいなくなり、廃墟に近くなっていました。
一方、東の都の四条より北のあたりは、身分の高い人から低い人まで多くの人が集まる場所になっていました。裕福な家は立派な門や堂を建て競い合い、小さな家は壁を隔てて軒先を並べていました。
この文章は、平安時代から鎌倉時代への移り変わりの中で、都が京都から鎌倉へと移り、都市の構造が大きく変化したことを示しています。
平安京はかつて栄華を誇った都でしたが、鎌倉時代になると人が住まなくなり、廃墟と化しつつあったのに対し、鎌倉は新しい都として発展し、多くの人々が集まる活気あふれる都市となっていた様子がわかります。
(ホ) 白河法皇と法勝寺
原文
「白河に法勝寺たてられて、国王のうぢでらにこれをもてなされけるより、代々みなこの御願をつくられて、六勝寺といふ白河の御堂、大伽藍、うちつづきありけり」慈円「愚管抄」の一説?
白河の地(現在の京都市左京区岡崎周辺)に法勝寺が建てられ、天皇がその寺で国賓をもてなすようになったことから、代々の天皇がみなこの寺を深く信仰し、法勝寺を中心に、六勝寺と呼ばれる寺々を次々と建て続け、大きな寺域を形成した。
この文章は、白河天皇が法勝寺を建立し、それが天皇家の信仰の対象となり、その後に多くの寺が建てられ、白河の地が一大仏教寺院の集まる場所になったことを示しています。
六勝寺には、法勝寺以外にも、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺などがあります。
大問5:大蔵省から開拓使への手紙
開拓使御中
「上州富岡製糸場へ修行のため、婦女子十五名程御使費を以て差し遣わされたく候間、手順且つ入費等詳細御承知なされたき」旨御申し越しの趣、承知致し候。
入費之儀ハ別紙取り調べ差し進め侯間,、委細書面にて御承知なさるべく候。
手順之儀ハ直二富岡表へ御差し向け相成り候方然るべく候えども、いよいよ御治定相成り候ハバ、御差し出し以前名前人員等御申し越しこれあり候ハバ、尚注意富岡表へ相達すべく候。
此の段回答に及び候也。
明治六年六月四日
開拓使御中
「上州富岡製糸場へ修行のため、婦人15名ほどを政府の費用で派遣したいので、手続きと費用について詳しく教えてほしい」というお申し出、承知いたしました。
費用の件については、別紙で詳しく調べてお送りしますので、そちらでご確認ください。
手続きについては、まず富岡製糸場へ直接お申し出いただくのが良いでしょう。しかし、正式に決定された際には、派遣する方々の氏名や人数などを事前にご連絡いただければ、富岡製糸場へ注意深く伝達いたします。
以上、回答とさせていただきます。
明治6年6月4日
この史料は、開拓使が富岡製糸場で女性に製糸技術を学ばせたいという要望を大蔵省へ出し、その手続きや費用について回答しているものです。
開拓使の目的:開拓使は、北海道の開拓を進める政府機関でしたが、同時に、日本の産業振興にも関与していました。富岡製糸場で女性に技術を学ばせることで、北海道でも製糸業を振興し、地域の経済発展に貢献しようとしたと考えられます。
富岡製糸場の役割:富岡製糸場は、単なる工場にとどまらず、近代的な技術や知識を日本各地に広めるための拠点としての役割も担っていました。史料が書かれた1年前の1872年(明治5年)に開業しました。
女性の労働:この史料は、女性が社会に進出し、労働者として活躍し始めたことを示す重要な証拠です。富岡製糸場には、全国から若い女性たちが集まり、厳しい労働条件の中で働きました。
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