慶應文学部:日本史大問4~5史料問題の現代語訳

慶應義塾大学文学部では、毎年史料問題が出題され、多くの受験生が苦労しています。

教科書や参考書でおなじみの史料ならまだしも、慶應文学部の史料問題は、いわゆる「初見史料」が多いのが特徴です。

この記事では、受験生の皆さんがスムーズに内容を把握できるよう、近年の慶應文学部日本史で実際に出題された史料の現代語訳・意訳を掲載します。

なお、文学部以外でも各学部で史料問題は出題されます。

典型問題は出題されませんが、勘所を押さえておくためにも、下記のような典型史料問題集を一通りさらっておくことをオススメします。

\楽天ポイント4倍セール!/
楽天市場
山川出版社
¥1,100 (2026/08/29 01:38時点 | Amazon調べ)
\楽天ポイント4倍セール!/
楽天市場

慶應文学部2024日本史:大問4~5

解説が膨大になったので別記事にしました。解答例のみ残しておきます。

>>>慶應文学部2024日本史:大問4~5史料問題現代語訳|北条家とバブル経済

大問4北条家の人々:解答例

問1:平賀(史料(イ)の「朝雅」は平賀朝雅のこと)

問2:源実朝

問3:執権(遠州=北条時政が実朝を後見し、初代となった役職)

問4:北条政子

問5:国衙行政の実務を担当した者で、地方豪族が任命された。

問6:長崎高資

問7:後醍醐天皇

問8:令旨

問9:評定衆(義時の子・北条泰時が創設した合議機関)

問10:北条時政は実朝の廃立を図って失脚したが、義時は承久の乱で朝廷を破り、執権政治を発展させた。そのため得宗の呼称は、家の初代である時政ではなく義時の法名にちなんだと考えられる。

大問5前川レポートとバブル経済:解答例

問1:60(昭和60年=1985年。この年のG5でドル高是正が合意された=プラザ合意)

問2:中曽根康弘

問3:ゴルバチョフ

問4:ジャパン=バッシング(経常収支不均衡のもとで欧米諸国が強めた対日非難)

問5:減量経営(石油危機以降、省エネルギー・人員削減・ME技術による自動化を進めた経営手法)

問6:為替

問7:ウルグアイ=ラウンド(1986年から始まったGATTの多角的貿易交渉)

問8:急速な円高を受けて政府が内需拡大へ舵を切り、超低金利政策を続けた結果、行き場を失った資金が不動産や株式市場に集中し、地価と株価が実態を超えるバブル経済が生じた。

プラザ合意後の円高で景気が悪化すると、政府は内需拡大のため低金利政策をとった。行き場を失った資金が株式や土地に集中し、地価と株価が急騰してバブル経済を招いた。

慶應文学部2022日本史:大問4~5

解説が膨大になったので別記事にしました。解答例のみ残しておきます。

>>>慶應文学部2022日本史:大問4~5史料問題現代語訳|平安京と富岡製糸場

大問4平安末期の政治と信仰:解答

問1:沙石集(鎌倉後期、無住が編纂した仏教説話集)

問2:来迎(阿弥陀如来や菩薩が現れ、往生を願う人を浄土へ迎えること)

問3:往生要集(恵心僧都=源信の著作)

問4:御霊会

問5:早良親王(崇道天皇。藤原種継暗殺事件に関わったとされ、無実を訴えながら死去した)

問6:福原京

問7:嵯峨天皇(三筆の一人)

問8:慶滋保胤(日本最初の往生伝「日本往生極楽記」の著者)

問9:白河

問10:上皇が自ら院庁を開いて政務の実権を握り、天皇を後見しながら政治を主導する院政という体制をとった。経済的には、上皇や寺院に寄進された荘園と、知行国として得る公領からの収入が基盤となった。(92字)

大問5富岡製糸場と開拓使:解答

問1:(i) 黒田清隆 (ii) 薩摩藩

問2:フランス

問3:工女

問4:内務省

問5:三井

問6:開港以来、生糸は最大の輸出品だったが、粗製濫造で品質が低下していた。政府はフランスから機械と技術者を招いて官営模範工場を設け、洋式製糸技術を各地へ広める拠点とした。集めた工女に技術を習得させ、品質向上と輸出拡大による外貨獲得をめざした。(118字)

慶應文学部2021日本史:大問5

大問5:新井白石と互市新例(折たく柴の記)

出典は、6代将軍・徳川家宣の侍講として幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代を担った新井白石の「折たく柴の記」。

原文

(イ) 御代つがれし初の年より、長崎港にて、海舶互市の料とすべき銅の数たらずして、交易の事行はれ難く、地下の人、産業をうしなふ由、奉行所より告げ申す事ありて、

某を召し問はる事あり。たやすく論ずべき事とも覚えず、いかにもその事の本末、おもひはかりて後に申すべし、と答申す。

それよりして奉りし前後の議草は、別に冊子となせし物共多ければ、其詳なる所は、こに記さず。

その大要は、当家代をしろしめされて、海舶互市の事始しより、此かた、凡そ百余年の間、我国の宝貨、外国に流れ入りし所、すでに大半を失ひぬ。

(中略)これより後、百年を出ず、我国の財用ことごとくつきなむ事は、智者を待たずして、其事明かなり。

【現代語訳例①】

御代が代わり、新しい時代の最初の年から、長崎港では、海を渡る貿易に必要な銅の量が不足し、交易が思うように進まなくなりました。そのため、地元の人々は生計を失いかけている、と奉行所から報告がありました。

そして私(新井白石)にその件について問うため召し出されることがありました。しかし、この問題は簡単に論じられるようなものではないと思われたので、「その事情の経緯を慎重に考えた上で、後ほど申し上げます」と答えました。

それ以降、この件について私が奉った意見や議論の草稿は多く、すでに別の冊子としてまとめられているものが多数あります。そのため、ここでは詳しく記さず、その大要だけ述べます。

まず、当家(徳川家)が政を行うようになり、海外との交易が始まってから、すでに百余年が経ちます。その間、我が国の宝である貨幣が外国に流出した量は非常に多く、その大半をすでに失ってしまっています。

これより後、百年もしないうちに、我が国の財産や資源はすべて尽きてしまうことでしょう。このことは、賢者に問うまでもなく、明らかです。

【現代語訳例②】

(イ) 現在の将軍(家宣)がご即位された最初の年から、長崎港では外国との貿易で使う銅の数が足りなくなり、交易がうまくいかず、市民たちが仕事を失っているということが奉行所から報告されました。

そこで、(私新井白石が)意見を求められたのですが、すぐに答えることができませんでした。そこで、この問題の本質を深く考え、後日改めて答えたいと申し上げました。

その後、提出した様々な意見書は、別冊子にまとめられているので、ここでは詳しく書きません。その大要は、徳川家が天下を治めて外国との貿易が始まって以来、約100年間、日本の金銀が外国に大量に流出し、すでに半分以上を失ってしまったということです。

(中略)この調子でいけば、あと100年も経たずに日本の財産がすべて尽きてしまうことは、賢い人なら誰でも分かるでしょう。

(ロ)は海舶互市新例の具体的な中身についての史料。

海舶互市新例とは、江戸幕府が1715年(正徳5年)に制定した長崎貿易に関する条例です。この条例は、新井白石の意見を基に作られ、当時の日本の経済状況、特に銅の不足と金銀の流出を改善することを目的としていました。

一、長崎表廻銅、凡一年之定数四百万斤より四百五拾万迄之間を以、其限とすべき事。(中略)

一、唐人方商売之法、凡一年之船数口船奥船合せて三拾艘、すべて銀高六千貫目ニ限り、其内銅三百万斤を相渡すべき事。(中略)

一、阿蘭陀人商売之法、凡一年之船数二艘、凡て銀高三千貫目限り、其内銅百五拾万斤を渡すべき事。

【現代語訳例①】

一つ、長崎で取り扱う銅については、1年の定められた量を400万斤から450万斤までの範囲とし、それを上限とすること。

一つ、中国商人の取引方法については、1年の船の数を大船・中船を合わせて30隻以内とし、取引の総額を銀6,000貫目に限る。そのうち、銅は300万斤を渡すこと。

一つ、オランダ商人の取引方法については、1年の船の数を2隻以内とし、取引の総額を銀3,000貫目に限る。そのうち、銅は150万斤を渡すこと。

【現代語訳例②】

一つ、長崎において、中国へ輸出する銅の量を、年間400万斤から450万斤の間とすること。

一つ、中国商人との貿易は、年間の船の数を口船と奥船を合わせて30隻とし、総額6,000貫目の銀と交換すること。そのうち、300万斤の銅を渡すこと。

一つ、オランダ人との貿易は、年間の船の数を2隻とし、総額3,000貫目の銀と交換すること。そのうち、150万斤の銅を渡すこと。

慶應文学部2018日本史:大問4~5

大問4:仏教伝来と大仏建立

(イ) 原夫れば、内経・外書の日本に伝はりて興り始めし代には、凡そ二時有りき。皆、百済の国より浮べ来りき。軽嶋の豊明の宮に宇御めたまひし誉田の天皇のみ代に、外書来りき。磯城嶋の金刺の宮に宇御めたまひし(欽明)天皇のみ代に、内典来りき。

現代語訳

そもそも、仏教経典(内経)と儒教などの経典(外書)が日本に伝わって広まり始めた頃には、おおよそ二つの時期がありました。それらはみな、百済の国から伝えられました。軽嶋の豊明宮にお住まいになられた応神天皇の御代に、儒教などの経典が伝えられました。磯城嶋の金刺宮にお住まいになられた(欽明)天皇の御代に、仏教経典が伝えられました。

(ロ) 降りて天平に及びて、弥尊重をもてす。遂に田園を傾けて、多く大寺を建つ。堂宇の崇く、仏像の大なること、工巧の妙、荘厳の奇、鬼神の製のごとくなるあり。人力の為に非ざるに似たり。また七道諸国をして国分二寺を建てしむ。造作の費、各その国の正税を用ゐたりき。ここに天下の費、十分にして五。

現代語訳

時代が下って天平の世になると、ますます仏教を尊重するようになりました。ついに多くの田畑を寺の領地にあてて、多くの大寺を建立しました。堂宇の高くそびえる様子、仏像の巨大なこと、技巧の素晴らしさ、荘厳な様子は、まるで鬼神が作ったかのようでした。人間の力によるものではないように思えます。

また、全国の諸国に国分寺と国分尼寺を建立させました。造営の費用は、それぞれの国の租税を用いました。ここに、天下の費用は十分の一の五(半分)を費やしました。

(ハ) 原文:(盧舎那)大仏像成りて、始めて開眼す。この日、東大寺に行幸す。天皇親から文武の百官を率ゐて、設斎大会す。その儀は一に元日に同じ。・・・・・・この夕、天皇,大納言 藤原朝臣仲麿の田村第に還御して、以て御在所と為す。

現代語訳

盧舎那の大仏像が完成して、初めて開眼供養が行われました。この日、天皇は東大寺に行幸なさいました。天皇自ら文武百官を率いて、盛大な法要を行いました。その儀式はまったく元日と同じでした。……この夕、天皇は大納言 藤原朝臣仲麿の田村第にお帰りになり、そこを滞在場所とされました。

(ニ) 二十九日。天晴れたり。揚州は四十余寺あり。なかんずく過海し来たまえる(鑑真)和上の本住は竜興寺なり。影像現在せり。法進僧都の本住は白塔〔寺〕なり。

現代語訳

二十九日。天気は晴れでした。揚州には四十余りの寺があります。中でも海を渡って来られた(鑑真)和上の元の住居は竜興寺です。像が今も残っています。法進僧都の元の住居は白塔寺です。

史料(二)と遣唐使の廃止の背景

838年に遣唐使として入唐したのは、天台宗の僧である円仁(えんにん)であり、彼が著した『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』がその日記として知られています。

838年の円仁の派遣後、遣唐使は派遣回数を減らし、894年に菅原道真の建議によって正式に停止されました。背景には、唐帝国の衰退と国内の混乱、航海の危険性の増大、そして日本の国力の充実と独自文化への意識の高まりがありました。

大問5:明治新政府と貨幣制度

文章の出典は、恐らく明治4年(1871年)の「新貨条例」です。

史料(イ)現代語訳

わが国では昔から外国との貿易が少なく、貨幣の制度はまだ整っていませんでした。その種類は様々で、価値も一定していませんでした。

その概要を挙げると、慶長金貨、享保金貨、文字金貨、大小の判金、一分金、二分金、二朱金、一分銀、一朱銀、当百銭、大小様々な銅銭があり、その他一時的に通用した貨幣は数えきれません。ひどい場合には、一国や一郡に限って通用する貨幣があり、現在に至るまでほんの一部でしか通用せず、他の地域では流通しないものもあります。

このように、種類は様々で、形や大きさ、価値も異なり、混ざり合って雑然としており、質も同じではありませんでした。

……今、貿易がますます盛んになる時にあたり、古い弊害を改め、質の良い新しい貨幣を作らなければ、どうして流通を円滑にし、富国強兵の基礎を築けるでしょうか。これは政府の責任であり、まさに急務です。

そこで、明治元年(戊辰の年=1868年)から早くもその事業を起こし、莫大な費用を惜しまず、(大阪)に新たに造幣寮を建設し……それによって、質の良い通用貨幣を鋳造し、従来の貨幣に加えて一般の流通を助けようと考え、すでに開寮の儀式を終えました。

しかし、前に述べたように、様々な種類の貨幣が多いので……徐々に新旧の貨幣を交換し(以下略)

明治維新以前の日本では、金貨、銀貨、銅銭など多種多様な貨幣が流通しており、それぞれの価値が異なる上、地域によって使用できる貨幣も異なっていました。この状況は貿易の発展を妨げる要因となっていました。

そこで明治政府は、貨幣制度の統一と近代化を急務とし、明治元年(1868年)に大阪に造幣寮を設置して新しい貨幣の鋳造を開始しました。これにより、全国で通用する統一貨幣を発行し、経済の発展を促進することを目指しました。

史料(ロ)現代語訳

政府が発行した最初の紙幣は太政官札です。太政官札は、維新創業の際、国内外で多くの難題があり、国家の財政が困窮していた時にあたり、莫大な経費を支えるために、明治元年五月から発行されました。そして、その回収は明治五年四月に始まり、同十一年八月に終わりました。

太政官札に次いで発行されたものを(民部)省札といいます。(民部)省札は太政官札に大札が多く小札が少ないことから生じた不便を解消するために明治二年十月から発行されました。そして、その回収は明治五年三月から官札一両以下のものと同時に行われ、また官札と同時に回収を完了しました。

次に発行されたものを大蔵省兌換証券および開拓使兌換証券といいます。(以下略)

明治政府は、明治維新直後の財政難を乗り切るため、明治元年(1868年)5月に「太政官札」という紙幣を発行しました。これは、膨大な維新の費用を賄うための緊急措置でした。

しかし、太政官札には高額紙幣(大札)が多く、少額紙幣(小札)が少なかったため、日常の取引に不便が生じました。そこで、明治2年(1869年)10月に太政官札の不便を補うため、「民部省札」が発行されました。

民部省札は太政官札と並行して流通しましたが、明治5年(1872年)に官札(太政官札と民部省札の総称)の1両以下の紙幣の回収が始まり、明治11年(1878年)に回収が完了しました。その後、大蔵省兌換証券や開拓使兌換証券が発行されるようになりました。

国立公文書館請求番号:太00003100-04600簿冊名:太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第三巻・制度・貨幣一件名:新貨条例ヲ発行ス より

江戸時代と近代の貨幣制度の違いとは

江戸時代は金銀銭の三貨制度に加え、地域限定の貨幣も存在し、統一されていませんでした。

明治維新後、政府は造幣寮を設け、全国統一の貨幣を発行。単位も両から円に変更し、十進法を採用しました。

当初は太政官札や民部省札といった不換紙幣が発行されましたが(史料ロ)、その後、国立銀行の設立や日本銀行の設立を経て、兌換制度を備えた近代的な紙幣制度が確立しました。

これにより、複雑だった貨幣制度が整理され、紙幣の信用が高まり、近代的な経済活動に適した制度へと移行しました。

貨幣制度の近代化は、経済活動の円滑化、国内市場の統一、国際貿易の促進など、日本の近代化に大きく貢献しました。史料にある

「方今貿易ノ道弥盛ムナル時ニ当リテ旧弊ヲ改メ精良ノ新製ヲ設ケスハ何ヲモッテ流通ノ道ヲ開キ富国ノ基ヲ立ンヤ」

という記述は、まさに貨幣制度の近代化が富国強兵の基礎となると認識されていたことを示しています。

慶應文学部2017日本史:大問5

大問5:戊戌封事(ぼじゅつふうじ)と内憂外患

戊戌封事(ぼじゅつふうじ)は、水戸藩主・徳川斉昭が、幕府の政治改革を訴えて提出した意見書です。天保9年(1838年)に書かれたことからこの名が付けられました。

*戊辰戦争(1868年)など、「戊」の付く出来事は末が「8」。

戊戌封事が書かれた背景と結果

当時の日本は、天保の大飢饉や大塩平八郎の乱など、内政が混乱している状態でした。また、外国船来航など、外国との関係が緊迫化していました。このような状況下で、斉昭は幕府の政治が腐敗していると感じ、改革の必要性を強く訴えました。

戊戌封事は、幕政改革の必要性を再認識させることになりました。しかし、幕府は具体的な改革を実行に移すことができず、幕末の動乱へとつながっていくことになります。

戊戌封事の内容

戊戌封事では、以下の点が主な内容として挙げられます。

  • 道徳の低下: 賄賂が横行し、道徳心が失われている現状を批判。
  • 外交問題: 外国船の来航など、対外関係の重要性を指摘。
  • 財政問題: 財政の立て直しと、新たな収入源の開拓を提言。
  • 商業活動: 行き過ぎた商業活動に対する批判と、適正な規制の必要性を主張。

戊戌封事の現代語訳

原文

当時太平の御世には御座候えども、人の身にたとえ候えば甚だ不養生にて、種々さまざまの病症きざし居り候

(中略)右の病症委細は筆紙に尽し兼ね候えども、大筋は内憂と外患との二つに御座候。内憂は海内の憂いにて、外患は海外の患いに御座候

(中略)凶年にて百姓の飢死候をも見殺しにいたし、武備は手薄く候て士民惰弱に相成り居り候故、近年三州・甲州の百姓一揆徒党を結び、又は大坂の好賊容易ならざる企て仕り、猶当年も佐渡の一揆御座候は、畢竟下々にて上を怨み候と、上を恐れざるより起り申し候

(中略)海外の国にては日本の富有るをうらやましく存じ候義勿論に御座候。五世界の内、横文字を用い侯国はみな邪宗の国にて、追々その宗旨をひろめ、今は日本と清国・朝鮮・琉球等のみにて、其他は残らず御制禁の切支丹宗門と罷り成り候。

清国は何を申すも大国ゆえ、夷狄も容易に手を出し申すまじく、朝鮮・琉球等は貧弱の小国に候間、目にかけ申すまじく、さ候えば第一に日本をねらい、次に清国をきりしたがえ候手順に御座候わん故、実に憂うべく悪むべき事に御座候。

現代語訳

今、世の中は平和に見えますが、人の体に例えると、非常に体調が悪く、様々な病気の兆候が見られます。

(中略)…この病気の詳しい状態は全て書き出すことはできませんが、大まかに言うと、国内の問題と国外からの脅威の二つ(内憂と外患)に分けられます。内憂の問題とは、国の内部で起こっている様々な問題のことです。外患とは、外国から国に迫ってくる危険な状態のことです。

(中略)…不作で農民が飢え死にしているのに放置し、国を守るための備えが怠り、人々は怠け者になっています。最近では、三河や甲州で農民たちが集団で反乱を起こし、大坂では悪事を働く者が陰謀を企て、さらには佐渡でも反乱が起こりました。これらの出来事は、結局のところ、庶民が上の者たちに不満を持ち、もはや上の者を恐れないという状況から生まれたものです。

(中略)…外国、特に西洋諸国は日本の富をうらやましく思っており、キリスト教を広めるなどして日本を侵略しようとしています。…五つの大陸のうち、西洋諸国はみなキリスト教の国で、その勢力を広げようとしています。今は日本、清国、朝鮮、琉球だけがキリスト教を禁止していますが、他の国々はすべてキリスト教の国となっています。

清国は何といっても大国なので、西洋諸国も容易には手を出さないでしょう。朝鮮・琉球は貧しい小国ですから、相手にもされないでしょう。つまり、まず日本をねらい、次に清国を打ち倒す順番になるでしょう。実に憂慮すべき事態です。

慶應文学部2015日本史:大問4

原文

(イ)泰時ただひとり、鞭をあげて馳せきたり。父、胸うちさはぎて「いかに」と問ふに、「(中略)もし道のほとりにも、はからざるに、かたじけなく、鳳輦を先だてて、御旗をあげられ、臨幸の厳重なる事も侍らんに参りあへらば、その時、進退はいかゞ侍べからん。この一事をたづね申さんとて、ひとり馳せ侍き」といふ。義時、とばかりうち案じて「かしこくも問へるおのこかな。その事なり。まさに君の御輿に向ひて、弓を引くことは、いかゞあらん。さばかりの時は、かぶとをぬぎ、弓の弦を切りて、ひとへにかしこまりを申て、身をまかせ奉るべし。さはあらで、君は都におはしましながら、軍兵を給せば、命を捨てて、千人が一人になるまでも戦ふべし」と、いひもはてぬに急ぎ立ちにけり。

【現代語訳:意訳】

泰時は一人で馬を駆り出しました。父親が驚き、「どうしたのか」と尋ねると、泰時はこう答えました。「もし道端で予期せぬことが起こり、鳳輦(天皇の乗り物)が先導され、大勢の兵を従えて厳重な警護のもとに進んでいる場面に遭遇した場合、その時にどうすればいいのか、ただそれを確かめるために急いで来たのです。」

義時はその言葉を聞いて深く考え込み、「なんと賢明な息子だろうか。それは重要な問いだ。もし君主の輿に向かって弓を引くような事態になったらどうすればいいのか? そのような状況では、兜を脱ぎ、弓の弦を切って、ただひたすらに恭順の意を表し、身を委ねるべきだ。しかし、君主が都にいらっしゃりながら、兵力を与えられた場合は、命を懸けて千人が一人になるまで戦い抜くべきだ。」そう言うと、泰時は急いで立ち去りました。

【現代語訳:逐語訳】

泰時がただ一人、鞭を上げて馬を走らせてやって来た。父の義時は、胸が騒ぎ、「どうしたのか」と尋ねると、泰時は「(中略)もし道の途中で、思いがけず、恐れ多いことですが、鳳輦(天皇の乗り物)を先頭に立てて、御旗が掲げられ、天皇の行幸のような厳重な事態に遭遇した場合、その時、どのように対処すべきでしょうか。この一件を尋ね申し上げようと思って、一人で馬を走らせて参りました」と言った。

義時は、しばらく考えて、「実に賢明な問いだな。その件だが、もし天皇の御輿に向かって弓を引くようなことがあれば、どうすればよいかということだな。そのような時には、兜を脱ぎ、弓の弦を切って、ひたすら謹んで事情を申し上げ、身を委ねるべきだ。そうでなく、天皇が都にいらっしゃる時に、軍兵を差し向けられたならば、命を捨てて、多くの兵が一人になるまで戦うべきだ」と言い終わらないうちに、急いで立ち去った。

北条義時が鎌倉幕府2代目執権で、北条泰時が3代目執権で、親子関係です。

3代目泰時は御成敗式目の編纂でも有名で、鎌倉北条氏の「中興の祖」とも言われています。

なお2代目義時を主人公にしたNHKの大河ドラマが「鎌倉殿の13人」です.3代目泰時も登場します。

NHKエンタープライズ
¥10,088 (2026/08/29 01:40時点 | Amazon調べ)
\楽天ポイント4倍セール!/
楽天市場

原文

(ロ)「何ともあれ、土御門院の御末をこそ」と心中におもひけれども(中略)城介義景を使にて其由を申ける程に、(中略)義景申けるは「若すでに京都の御計にて、順徳院の宮つかせ給たらば、いかゞあるべき」と申けるを、泰時返々感じて「此事を申落たりける(中略)何条子細あるまじ。若さる御事あらば、おろしまゐらすべし」と申含けり。

【現代語訳:意訳】

「何よりも、土御門院の御子孫こそ大切だ」と心の中で思いつつも(中略)、城介の義景を遣わしてその旨を伝えたところ、(中略)義景は「もしすでに京都で順徳院の宮を迎え入れる準備が進んでいるとしたら、どうすればいいのか」と尋ねた。泰時はその言葉を何度も心に繰り返し、「このことを伝え忘れていたのか。何一つ差し支えない。もしそのようなことがあれば、中止するように伝えてくれ」と指示しました。

【現代語訳:完全版】

思いがけない身分の低い者の夢にも、これほどの出来事を見ることがあったとは。不思議なことである。

さて、関東へ早馬を走らせて知らせたところ、泰時はひたすら酒宴をして遊んでいたが、このような事態を聞いて、何も言わずにすぐに立ち上がり、障子をぴしゃりと閉めて奥へ入り、「これはどうしたものか。泰時の運もこれまでか。この事を朝廷に申し上げずに、京都からの沙汰(決定)があったならば、大変な事態になるだろう。朝廷に申し上げようとしても、取るに足りない身分の自分がどうこうできることでもない。進退窮まってしまった」と言って、三日三晩寝食を忘れて考えあぐねていたが、「何としても、土御門院の血筋だけは守らねば」と心の中では思っていたものの、結局は神仏のお計らいに任せるしかないと思い、若宮社へ参詣して神意を占ったところ、「土御門院の宮」という結果が出たので、「やはり自分の考えに間違いはなかった」と思い、すぐに城介義景を使者として、その旨を朝廷に申し述べさせた。

その間、義景がどこかの岩屋からか急いで帰ってきたので、「また何か大変な事が起こったのか」と思って、泰時は騒ぎ立てたところ、義景が申し上げるには、「もし既に京都の朝廷の決定で、順徳院の皇子を皇位につかせることになったならば、どうすればよいでしょうか」とのことだった。

泰時は何度も深く感じ入って、「このことを伝え忘れていたのか。殿(将軍)を上洛させたのはこのような事態のためである。実に良い問いであった。決して問題はない。もしそのような事態になったならば、天皇に申し上げて、しかるべき処置を仰ぐべきだ」と義景に言い含めた。

出典はおそらく増鏡です。

繰り返しますが、北条泰時は鎌倉幕府3代目執権で、御成敗式目の編纂でも有名です。

泰時といったら義時の息子で御成敗式目の人、スッと出てくるようにしてください。

原文

(ハ)前駈・御随身馳散テ声々ニ「如何ナル田舎人ナレバ加様ニ狼藉ヲバ行迹ゾ。院ノ御幸ニテ有ゾ」ト呼リケレバ、頼遠酔狂ノ気ヤ萌シケン、是ヲ聞テカラ、、ト打笑ヒ「何二院ト云フカ、犬ト云フカ。犬ナラバ射テ落サン」ト芸儘二、御車ヲ真中二取籠テ馬ヲ懸寄セテ、追物射ニコソ射タリケリ。

【現代語訳:意訳】

先駆けて走っていた者や随行者が四方八方へ散らばり、「なんという田舎者がこんな乱暴なことをするのか。院の御幸にあたってはけしからん」と叫び始めた。頼遠は酔いがさめ、それを聞いて「何だ、院というのは? 犬のことか? 犬なら射落としてやる」とふざけて、御車を真ん中にとらえ、馬を駆り立てて、まるで狩りの獲物を射るように矢を放った。

【現代語訳:逐語訳】

先駆けの者や御随身の者たちが馬を走らせながら口々に「一体どんな田舎者だからこのように乱暴な振る舞いをするのか。院の御幸(上皇の外出)であるのに」と叫んだので、頼遠は酔っ払っていたせいか、ふと悪ふざけの心が起きたのだろうか、これを聞いてから大声で笑い、「何が院だ、犬のことか。犬ならば射落としてくれるわ」と好き勝手に言い、御車を真ん中に取り囲んで馬を寄せ集めて、追物射(馬上から鹿などを追いかける遊戯)で鹿を射るように弓矢で射た。

土岐頼遠が光厳上皇に行った不敬事件の話です。この事件自体は日本史には出ないので覚えなくていいです。

康永元年(1342年)9月6日、美濃国(現在の岐阜県南部)の守護であった土岐頼遠は、笠懸の帰り道、京都市中において光厳上皇の牛車と遭遇しました。この時、頼遠が酒に酔っていた勢いもあって、「院(上皇のこと)と言うか、犬と言うか。犬ならば射ておけ」などと暴言を吐き、矢を射かけたという話です。

院と犬のダジャレです。

なお、光厳天皇は、討幕に失敗して隠岐に流された後醍醐天皇に代わって幕府に擁立された天皇です。

足利尊氏側の天皇で、大人の事情で歴代天皇に数えられない北朝の初代天皇です。

教学社
¥2,420 (2026/08/30 04:47時点 | Amazon調べ)
\楽天ポイント4倍セール!/
楽天市場

\ お知らせ /

この記事を書いた慶應専門塾GOKOでは、一緒に慶應義塾大学を目指す生徒を募集しています。

完全マンツーマンで密度の濃い授業を、オンラインで全国の受験生へお届けしております。

慶應を目指す受験生(とその保護者の方)は、以下よりお問い合わせください。

  • 全国どこからでもオンラインで受講可
  • 完全個別のマンツーマンコース
慶應専門塾GOKO
塾長 吉中

初回ご面談は私が担当させていただきます。







    お問い合わせ内容

    投稿者

    GOKO編集室
    GOKO編集室
    GOKOでは慶應義塾大学に進学したい受験生のために、役立つ情報の発信をおこなっています。こんな記事が読みたいなど、希望がありましたらお問合せページよりご連絡ください。