慶應法学部2026日本史解答解説:史料問題の現代語訳と背景知識|怨霊と摂関政治、感染症と近代化
この記事では、慶應法学部の2026年の日本史の解説です。
論述が加わった2年目で、大問2の設問8と大問4の設問8の2問で、いずれも200字です。
今後も出題は続くと思いますので、解答作りの参考にしてください。
慶應法学部2026日本史に平均点と合格最低点
具体的な解説に入る前に、この年の日本史がどれくらいの難度で、何点くらいを目指せばよかったのか、数字で確認しておきます。
| 法律学科 | 政治学科 | |
|---|---|---|
| 合格最低点(450点満点) | 317点(70.4%) | 317点(70.4%) |
| 日本史平均点(150点満点) | 85.22点(56.8%) | 86.08点(57.4%) |
合格最低点の得点率は70.4%と、旧配点期(2021〜2024年度、400点満点)の58〜63%と比べても高い水準でした。
この跳ね上がりを主に牽引したのは英語の易化で、日本史はむしろ前年2025年度の32.7%・36.8%という落ち込みから標準的な水準に戻った印象です。
この記事で扱っている大問1・3のような語群付き空所補充や、法学部らしい正誤判定の難しさは健在でしたが、2025年度ほどの極端な難度ではありませんでした。
合格最低点が高い分、日本史でも平均点を上回り、100/150点は狙っておきたい年でした。
大問Ⅰ:平安時代の政治史と怨霊
平安時代の問題というと、摂関政治の系図が典型です。
そんな中、2026法学部は「怨霊」という切り口での出題でした。桓武天皇の弟が非業の死、菅原道真の祟り、平将門の首。
地の文そのものが史料的な性格を帯びていますので、問題を解くだけでなく、歴史のある側面として楽しんで読んでみてください。
出題本文
桓武天皇の時代、長岡京遷都の指揮にあたっていた藤原種継が暗殺される事件が起きた。桓武天皇の弟で皇太子でもあった【早良親王】が事件に関与していたと疑われて淡路に流罪となったが、彼は断食して無実を訴え、護送途中で死去した。桓武天皇は自分の子である安殿親王を皇太子にしたが、その後、様々な不幸な出来事が起きた。安殿親王は病にかかり、桓武天皇の皇妃である藤原旅子も病死し、さらに疫病や飢饉が続いた。これらは早良親王の祟りであると噂されるようになったこともあり、桓武天皇は平安京に都を移した。その後、死者を祀って災厄を鎮める御霊会が開催されるようになった。
嵯峨天皇の時代になると、藤原冬嗣が蔵人頭になり、その子の良房は娘を入内させるなどして天皇家と外戚関係を築き、藤原氏は政治的影響力を強めていった。良房は842年に起きた【承和の変】の後に自らの甥を皇太子とし、この皇太子は後の文徳天皇になった。良房はさらに娘の【明子】を文徳天皇に嫁がせ、その間に生まれた子は後に清和天皇となった。良房には男子がいなかったため、兄である藤原長良の子の基経を養子に迎えた。基経の実妹である高子は清和天皇の女御となり、その子は後に陽成天皇となった。こうして藤原氏は着々と権力基盤を固めていった。
嵯峨天皇の頃から学問分野で存在感を増し始めたのが菅原家であった。嵯峨天皇は漢文学を重視し、菅原清公や【小野岑守】に命じて最初の勅撰漢詩文集である「凌雲集」の編纂を行わせた。菅原清公は菅原道真の祖父であり、文章博士として紀伝道の発展に寄与した。清公の子である是善も文章博士となり、菅原家は紀伝道の中心的存在となった。菅原家は菅家廊下と呼ばれる私塾を開き、そこで多くの門人が学んだ。
政治の世界では藤原氏が摂関政治を展開し、藤原基経は【橘広相】が起草した勅書をめぐる阿衡の紛議において自らの権勢を示した。基経が死去すると、宇多天皇は藤原氏を外戚としなかったこともあり、学者の菅原道真を重用した。ところが、醍醐天皇の時代になると、藤原時平の讒言により、道真は大宰府に左遷された。
醍醐天皇は、土地制度改革や法令の整理に取り組んだ。醍醐天皇は、902年に税収強化のために荘園整理令を発し、「応に【勅旨田】并びに諸院諸宮及び五位以上の、百姓の田宅を買い取り閑地荒田を占請するを停止すべき事」とした。また、醍醐天皇は藤原時平に【延喜式】の編纂を命じるなど律令体制を復興した。
さて、道真が失意のまま死去して数年経つと、藤原菅根が雷にあたって死去し、藤原時平も病死するなど、左遷の関係者とみられる人物が相次いで死去した。また、洪水、干ばつ、伝染病などの自然災害が頻発するようになり、さらに清涼殿への落雷によって貴族らが命を落とすと、醍醐天皇は体調を崩し、その年のうちに死去した。その後、道真の祟りを鎮めるために、北野神社(北野天満宮)に道真を祀ることになった。
道真が左遷された大宰府は軍事や外交などを担当する行政機関であった。大宰府は天慶の乱で藤原純友に一時占領されたが、その後、朝廷は【小野好古】を追捕使に任命して藤原純友を追討し、大宰府も朝廷のもとに戻った。天慶の乱を引き起こしたもう一人の人物である平将門は、関東地方の国府を襲って国司を追放し、自らを新皇と名乗ったが、朝廷が派遣した軍によって討ち取られた。討ち取られた平将門の首は京都の河原に晒された後に関東の方に飛んで行ったなどと噂され、将門についても祟りにまつわる話がある。
解答一覧
| 設問 | 解答番号 | 解答・選択肢の要旨 |
|---|---|---|
| 1 | 2 | 早良親王 |
| 2 | 3 | 平城天皇 |
| 3 | 5 | 承和の変 |
| 4 | 4 | 道康親王 |
| 5 | 1 | 明子 |
| 6 | 5 | 小野岑守 |
| 7 | 5 | 菅原道真が「菅家文草」を醍醐天皇に奏進( |
| 8 | 4 | 橘広相 |
| 9 | 3 | 勅旨田 |
| 10 | 2 | 延喜式 |
| 11 | 1 | 村上天皇 |
| 12 | 1 | 小野好古 |
| 13 | 4 | 藤原秀郷(俵藤太、百足退治の伝説) |
設問1・2:早良親王と平城天皇
設問1は「藤原種継暗殺で失脚」で早良親王が確定します。784年のに遷都した長岡京時代の話です。
設問2は世に言う薬子の変ですが、「薬子」という固有名詞を一切出さず、事件の輪郭だけで人物を特定させる必要があります。薬子の変だとわかれば、関連知識で解答にいたれます。下線部アの安殿親王が、後に即位して平城天皇となり、わずか3年で退位した後に嵯峨天皇と対立しました。
設問3〜5:承和の変と藤原氏の外戚戦略
設問3は藤原良房と842年で承和の変を確定させます。「842=はしに/も棒にもかからない」の頃で覚えましょう。
承和の変は、藤原良房が伴健岑・橘逸勢らを排斥した事件です。この結果、皇太子の座が藤原良房の甥である道康親王(後の文徳天皇、設問4)に移りました。
藤原良房の娘である明子(設問5)が文徳天皇に嫁ぎ、清和天皇を産みますが、明子は家系図まで見てないと難しいかもしれません。
ここまでは順調な外戚戦略ですが、藤原良房自身には男子がいませんでした。そこで兄の子である藤原基経を養子に迎え、後を継がせています。藤原基経は「橘広相:と「阿衡の紛議」の3点セットで覚えましょう。
設問6・7:小野岑守と学問世界の正誤判定
設問6の小野岑守(おのの みねもり)は嵯峨天皇に命じられた「凌雲集」(りょううんしゅう)の編纂で確定させます。
慶應レベルなら覚えておきたい人ですが、息子が閻魔大王の補佐官で有名な小野篁(おののたかむら)です。漫画「鬼灯の冷徹」や2026年のゲーム「鬼武者 Way of the Sword」メディア露出多数です。
この人が小野篁↓
設問7は当時の学問状況を説明する正誤判定です。
選択肢2に「明法道は易経・尚書・詩経・春秋・礼記を学ぶ学科」とありますが、明経道の説明で、明法道は律令などの法律を学ぶ学科です。(なお、選択肢②の「清平氏」は「清原氏」の誤記です)
設問9~10:醍醐天皇の治世と律令体制の立て直し
醍醐天皇の治世(設問9・10)は、菅原道真左遷後の律令体制の立て直しとして描かれます。
設問9は、醍醐天皇、902年延期の荘園整理令、で「勅旨田」が確定します。
延喜式(設問10)は「醍醐天皇は藤原時平に命じた」で確定します。
設問11:菅原道真の祟りと北野天満宮
北野天満宮の創建年である947年当時の天皇は村上天皇ですが、(設問11)は「乾元大宝を発行した人物」で村上天皇が確定します。958年です。
設問12~13:承平・天慶の乱
最後の天慶の乱(設問12・13)は、武士の台頭を扱う場面です。
解答の小野好古は、先ほど登場した小野岑守の子孫にあたります。
「藤原純友の追討」だけだと源経基の可能性もありますが、「追捕使に任命」で小野岑守が確定します。
平将門を討ち取った人物についての設問13は、選択肢に藤原秀衡・藤原基衡・藤原清衡・藤原泰衡ら奥州藤原氏の四代が並びます。
正解の藤原秀郷を知っていても、選択肢からの記述から解答には至れないでしょう。他選択肢を消去してから解答を確定させます。
思考力を問うというか、意地の悪い問題です。
大問Ⅱ:感染症の歴史
大問Ⅰが平安時代の政治史でしたが、大問Ⅱは古代から昭和までの感染症と公衆衛生の通史です。
「源氏物語」の瘧から西南戦争のコレラ、夏目漱石の小説に出てくる胃薬、スペイン風邪まで、時代の縦の幅がとにかく広いです。
論述は200字が1問、大問Ⅳの設問8と合わせて、この記事全体で論述は2問です。
出題本文
感染症は、その名のとおり細菌やウイルスなどに感染して起きることから、人やモノの移動が広がれば広がるほど感染も広がることになる。日本は島国であることから感染症の大規模な流行が発生しにくい環境にあったとされるが、それでも古代から様々な感染症が存在した。たとえば、『源氏物語』の「若紫」は、源氏が「瘧病にわづらひたまひて」北山の聖のもとに平癒祈願にいくところから始まっているが、この瘧病(瘧)は感染症であったと考えられている。
江戸時代になるといわゆる「鎖国」の状態となり、外国から感染症がもたらされるリスクは減少したが、例外的に交易が認められていた場所では流行することがあった。幕末になると条約によって開港された場所から感染症が広がることもあった。たとえば、コレラは外国から持ち込まれたと考えられており、文政、安政、文久に流行が起きた。
一方、江戸時代には入国を認められた一部の外国人によってもたらされた西洋医学により、感染症対策が進展した側面もあった。日本は古くから天然痘に悩まされてきたが、シーボルトはジェンナーの種痘法を伝え、モーニッケは牛痘法種痘を実際に行った。長崎で蘭学や医学を学んだ緒方洪庵は、モーニッケが輸入していた痘苗を得て、除痘館を開き、牛痘種痘法を実施して天然痘治療に貢献した。また、緒方洪庵は適塾を開き、多くの優秀な弟子を輩出した。福澤諭吉の後に第11代塾頭となった人物は、公衆衛生の概念を日本に広め、厚生省の前身である内務省衛生局の初代局長となった。また、適塾出身者の中には欧州に行った際に赤十字の存在を知り、後に日本赤十字となる博愛社を設立した者がいた。
さらに、明治時代になると日本人研究者が医学や化学、生物学などの分野で重要な発明や発見をするようになった。もっとも、明治時代の近代化は貧富の差を拡大する側面があり、特に労働者は衛生面で劣悪な環境に置かれることが多く、衛生状態の悪化が懸念された。1911年には工場法が制定されて労働者の保護がはかられたが、不十分な点も残った。
20世紀の二度の世界大戦は、人やモノの移動に加えて、多数の傷病者を出し、社会の衛生状態を悪化させたため、感染症を広げる契機となった。特に第一次世界大戦時にはスペイン風邪が大流行し、多くの感染者および死亡者が出た。第二次世界大戦時にも、様々な感染症が人々を苦しめた。
夏目漱石の小説『吾輩は猫である』では、苦沙弥先生を評して、「彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力のない不活発な徴候をあらわしている。その癖に大飯を食う。大飯を食った後で【タカジアスターゼ】を飲む」というくだりが登場する。
現代語訳:「瘧病にわづらひたまひて」
「瘧(おこり)を患われて」という意味です。瘧は間欠的に高熱が出る病で、現在のマラリアにあたると考えられています。光源氏がこの病を治すために北山の聖のもとを訪ねるところから、「若紫」の巻は始まります。
解答一覧
| 設問 | 解答番号 | 解答・選択肢の要旨 |
|---|---|---|
| 1 | 5 | マラリア |
| 2 | 3 | 新潟・神奈川・兵庫・長崎 |
| 3 | 1 | 長与専斎 |
| 4 | 4 | 佐野常民 |
| 5 | 2 | タカジアスターゼ |
| 6 | 1 | 資本家の反対で施行が1916年まで遅れた |
| 7 | 3 | 日本ではマスク着用が奨励された |
| 8 | 論述 | 200字論述(後述) |
設問1〜3:瘧、開港場、長与専斎
設問1は、黒人がアフリカから連れてこられた際にアメリカ大陸へ持ち込まれ、第二次世界大戦中にはフィリピンや沖縄でも流行したという感染症を問うものです。答えはマラリアです。ペストやエボラのような派手な病名に引っ張られず、戦地での流行という手がかりから絞り込めるかどうかが分かれ目です。
設問2は、日米修好通商条約で新たに開港した場所の組み合わせを問う設問です。正解は新潟・神奈川・兵庫・長崎で、これに函館と下田を加えた6港が、幕末の開港場です。函館・下田は先に開港済みなので、「新たに」という設問文の条件で選択肢を絞り込めます。
地元や隣県にある場合は、足を運んでね。
設問3=下線部ウで言及された人物を答える設問、難問です。適塾で福澤諭吉の後に第11代塾頭となり、公衆衛生の概念を日本に広め、内務省衛生局の初代局長になった人物...、長与専斎が正解です。選択肢にも医療系の偉人が入っており、仮に長与専斎を見聞きしたことがあっても正解が難しいです。
ちなみに、慶應医学部の研究棟1階ラウンジには、福澤先生と北里柴三郎のめちゃめちゃでかい肖像画が飾られています。用語集で北里柴三郎は改めて押さえておいてください。

設問4・5:博愛社と、猫が飲む胃薬
設問4の佐野常民は、「博愛社設立」が確定ポイントです。
博愛社はのちに日本赤十字社となる組織で、西南戦争の際に敵味方を問わず負傷者を救護したことをきっかけに設立されました。
これは差がつく1問で、佐野常民は日本史上位勢なら押さえておきたい人物です。博愛社設立だけではなく、明治14年の政変で下野する直前の大蔵卿でもあります。明治大学の過去問でも、
( )の後をうけて1881(明治14)年に大蔵卿に就任した松方正義は、思い切った紙幣整理に着手した。
といった出題をされています。1880年代前半の大蔵卿は、大隈→佐野→松方の順番です。
設問5、タカジアスターゼは難しいです。
「吾輩は猫である」に登場する胃薬の名前を答える問いですが、文学作品中の固有名詞まで拾えているかを問う設問になっています。「吾輩は猫である」を読んでいても、胃薬の固有名詞までは覚えていないと思います。
ちなみに、タカジアスターゼは高峰譲吉が開発した消化酵素剤で、これを販売した塩原又策が1899年に興した三共商店が、現在の第一三共につながります。第一三共のホームページには創業話として載っていますが、受験生が答えるのは酷な気がします。

設問6・7:工場法とスペイン風邪
設問6は、1911年に制定された工場法についての正誤判定です。正解は選択肢1、工場法は1911年に制定されたものの、資本家側の反対などもあり、施行は1916年の大隈内閣まで延期されました。法律ができることと、それが実際に機能することには少しズレがある問題です。
工場法について押さえておくべきことは
- 初の労働者保護法
- 15人以上の工場で、最低年齢12歳、労働時間12時間
11年成立、12歳12時間、15名以上、16年施行、を覚えておくと大方の問題に対応できます。
設問7は、スペイン風邪についての正誤判定です。正解は選択肢3、日本ではマスク着用が奨励されたという内容でした。この設問は、コロナ禍を経験した世代にとってはかえって解きやすかったかもしれません。
100年前もマスク着用してたんですね(しみじみ)。
設問8:1877年のコレラ流行を200字で説明する
設問8は、1877年のコレラ流行について、内務省の対策の狙いと感染が拡大した要因を、1877年の国内情勢に言及しながら200字で説明する論述です。
論述で押さえるべき要素
この設問は、「内務省の対策」と「コレラが拡大した要因」大きく二つに分けて考えると整理しやすくなります。
一つ目は「内務省の対策」です。内務省は、清国厦門(アモイ)で流行していたコレラが日本国内に侵入するのを防ぐため、開港場のある神奈川・兵庫・長崎の3県に、入港船舶の検査と避病院の設置を命じました。外国から感染症が入ってくることを想定し、開港場で流行を食い止めようとした水際対策と理解すればよいでしょう。
二つ目は「感染拡大の要因」です。1877年は西南戦争の年であり、戦争後に帰還した兵士の中にコレラ患者がいたことが、感染拡大の一因となりました。外国から国内に流入したコレラが、人の移動を通じて各地へ広がったと考えると、全体の因果関係がつながります。
実際には、当時の検疫をめぐって英国公使が反対し、三県での検疫が中止されたという経緯もあります。ただし、これは受験日本史の標準的な知識とは言いにくいため、200字答案では無理に触れなくてよいでしょう。
したがって、答案では「開港場での水際対策」→「コレラの侵入」→「西南戦争後の帰還兵」→「全国への感染拡大」という流れを作ると書きやすくなります。
論述の思考のプロセス
「神奈川・兵庫・長崎」
→ 幕末に開港した港と結びつける【知識】
→ 清国アモイでコレラが流行している
→ 外国からの感染症侵入を防ぐための水際対策だと考える
→ 「入港船舶の検査」「避病院の設置」を答案に入れる
+α→当時は不平等条約もあり外国船に対する検疫権を制限され、対策が不十分だった
「1877年」
→ 西南戦争の年だと思い出す【知識】
→ 戦争後に兵士が各地へ帰還した
→ 帰還兵の中にコレラ患者がいた
→ 人の移動を通じて感染が各地へ広がった
これらを元に解答を作成します。
論述の解答例
解答例①(現実的な解答例)
内務省は、清国アモイで流行したコレラの国内への侵入を防ぐため、開港場である神奈川・兵庫・長崎の3県に、入港船舶の検査と避病院の設置を命じ、水際での流行防止を図った。しかしコレラの国内流入は防ぎきれず、折しも1877年は西南戦争が終結した年でもあったため、戦争後の帰還兵の中にいたコレラ患者を通じて感染が各地へ広がり、人の移動も重なって多数の犠牲者を出す全国的な流行へと発展した。(189字
解答例②(検疫できなかった背景まで踏み込むパターン)
内務省の対策は、コレラの主な侵入経路である開港場、すなわち神奈川・兵庫・長崎の3県に船舶検査と避病院の設置を命じ、水際で感染を食い止めることを狙った。しかし不平等条約のもと、外国船に対する検疫の実施には制約があり、コレラの国内への流入を防ぎきれなかった。さらに1877年は西南戦争が終結した年で、帰還兵の中にコレラ患者がいたため、人の移動を通じて感染が各地へ広がり、全国的な流行に至った。(194字)
なお、最も詳細な解答が横浜検閲のアーカイブにあったので紹介します。
その後、明治時代に入ってからも2年から3年間隔で感染が広がり、明治10年(1877年)には、清国厦門(現在の中国福建省厦門〔アモイ〕)で流行していたコレラの進入防止策として、内務省が神奈川、兵庫、長崎の三県に対して、避病院(伝染病の専門病院)の設置を命じます。入港する船舶を検査して船内にコレラ患者がいるときは避病院に移させることとし、また、清国往来の汽船会社には、乗客、貨物を点検しコレラ予防に注意するよう指示しました。
しかし、英国公使の反対にあって三県における検疫は中止され、その結果、遂に同10年9月初め長崎及び横浜にコレラが侵入してしまいました。さらに、西南戦争後の帰還兵の中にコレラ患者がいたことで流行が拡大し、患者13,816人、死者は8,027人となる大流行となりました。
横浜検疫所の変遷(https://www.forth.go.jp/keneki/yokohama/museum/page2-1.html)より
大問Ⅲ:近世の政治・社会・対外関係
大問Ⅲは文学部の大問4~5にある史料問題に近い形式です。
織豊政権期から幕末の藩政改革まで、時代の幅は広いですが、大問ⅠやⅡほど一本のテーマで貫かれているわけではなく、近世史のオムニバスの雰囲気でした。
解答一覧
| 設問 | 解答 | 解答・選択肢の要旨 |
|---|---|---|
| 1 | 3 | (c)と(d)の間 |
| 2 | 6 | 方広寺 |
| 3 | 4 | 検地帳に田畑一筆ごとの所在地・等級・面積・名請人を記録 |
| 4 | 3 | サン=フェリペ号事件(土佐浦戸漂着) |
| 5 | 1 | ドン・ロドリゴ漂着事件(上総漂着) |
| 6 | 2 | 五人組による連帯責任 |
| 7 | 1 | 紫雲寺潟新田(町人請負) |
| 8 | 5 | 檜(四木三草に含まれない) |
| 9 | 3 | 熊沢蕃山、「大学或問」で幕政批判と咎められた |
| 10 | 4 | 七分積金(町費節減分を囲籾・積立金に) |
| 11 | 3 | 海保青陵、「稽古談」で営利追求の正当性を主張 |
| 12 | 4 | (c)-(b)-(e)-(d)-(a) |
| 13 | 2 | 長州藩、越荷方による藩財政の立て直し |
史料①:刀狩令
一 諸国百姓、刀、脇指、弓、やり、てつはう、其外武具のたぐひ所持候事、堅く御停止候。其子細は、入らざる道具をあひたくはへ、年貢、所当を難渋せしめ、自然、一揆を企て、給人にたいし非儀の動をなすやから、勿論御成敗有るべし。然れば、其所の田畠不作せしめ、知行ついえになり候の間、其国主、給人、代官として、右武具悉く取りあつめ、進上致すべき事。
一 右取をかるべき刀、脇指、ついえにさせらるべき儀にあらず候の間、今度大仏御建立の釘、かすかひに仰せ付けらるべし。然れば、今生の儀は申すに及ばず、来世までも百姓たすかる儀に候事。
一 百姓は農具さへもち、耕作専に仕候ヘハ、子々孫々まで長久に候。〔中略〕百姓は農桑に精を入べき事。
(「小早川家文書」)
現代語訳例
一つ、諸国の百姓が、刀・脇差・弓・槍・鉄砲、そのほかの武具の類を所持することを固く禁止します。その理由は、不要な道具を蓄えて年貢や公事を渋り、ややもすれば一揆を企てて給人に対して不届きな振る舞いをする者が出てくるためで、そうした者はもちろん処罰されます。武具を取り上げなければ、その土地の田畑が荒れ、知行が損なわれてしまうので、国主・給人・代官は右の武具をすべて集めて差し出しなさい。
一つ、取り上げた刀・脇差は無駄にするわけではありません。このたびの大仏建立にあたって、釘や鎹(かすがい)として使うよう命じられます。そうすれば、この世だけでなく来世まで、百姓の救いとなるでしょう。
一つ、百姓は農具さえ持って耕作に専念していれば、子々孫々まで長く安泰です。〔中略〕百姓は農業に精を出すべきです。
有名な天正16年(1588年)の刀狩令です。三カ条とも「なぜ武具を取り上げるのか」を丁寧に説明している点が印象的で、単なる武力の剥奪ではなく、年貢を確実に取り立てるための治安対策として提示されています。
取り上げた武具を大仏建立の釘やかすがいに使うという説明も、宗教的な大義名分を借りて百姓の抵抗感を和らげる理屈です。
設問1:豊臣秀吉の政策順
設問1は、史料①が発せられた時期を、豊臣秀吉と関わりの深い出来事(a)から(e)の年代の間に位置づける問題です。
刀狩令が出された1588年7月は、(c)バテレン追放令(1587年6月19日)より後、(d)小田原征伐・奥羽仕置(1590年)より前にあたるので、正解は選択肢3の「(c)と(d)の間」です。
豊臣秀吉の政策を年表の形で頭に入れておく必要がありますが、年代順に並んでるのが救いです。
まとめると以下の通りです。
| 記号 | 歴史的用語・出来事 | 年 | 補足 |
|---|---|---|---|
| (a) | 紀州攻め(根来衆・雑賀衆の討伐) | 1585年 | 天正13年。秀吉が紀伊の根来衆・雑賀衆を討伐 |
| (b) | 九州平定・島津義久の降伏 | 1587年 | 天正15年5月。島津義久が秀吉に降伏 |
| (c) | バテレン追放令 | 1587年 | 天正15年6月19日。宣教師に20日以内の国外退去を命令 |
| ★ | 刀狩令(史料①) | 1588年 | 天正16年7月。 |
| (d) | 小田原征伐・奥羽仕置 | 1590年 | 天正18年。北条氏を滅ぼし、奥羽の諸大名も服属させた |
| (e) | 身分統制令 | 1591年 | 天正19年8月。百姓が田畑を捨てて商業や賃仕事に就くことを禁止(翌1592年の人掃令と注意) |
設問2~3:国家安康と太閤検地
設問2は、史料①で言及されている「大仏」が建立された寺院を問うものです。正解は選択肢6の方広寺です。
京都にあるこの方広寺は、のちに鐘銘事件(「国家安康」「君臣豊楽」の文言が徳川家康を呪詛するものだと難癖をつけられた事件)の舞台としても知られており、大坂の陣の口実になった寺でもあります。
ちなみに、方広寺は現存しており、1001体の仏像で有名な三十三間堂のすぐ北にあります。
設問3は、豊臣秀吉が全国規模で行わせた土地調査、いわゆる太閤検地についての正誤判定です。
太閤検地の知識を引っ張り出して解答しますが、特徴を押さえておけば消去法で解答可能です。
| 選択肢 | 誤っている部分 | 正しくは |
|---|---|---|
| [1] | 領主の自己申告に任せた | 太閤検地では検地奉行(役人)を派遣して、実際に田畑を測量しました。領主に申告させるやり方は指出検地で、太閤検地の特徴は「指出検地からの転換」です |
| [2] | 360歩を1反とした | 300歩で1反です。6尺3寸を1間、1間四方を1歩とした部分は正しい。360歩=1反は太閤検地より前の古い基準です。 |
| [3] | 宣旨枡を標準とした | 京枡に統一しました。宣旨枡は1072年に後三条天皇が定めた、平安時代の公定枡です。 |
| [4] | 無し→正解 | 検地帳には田畑一筆ごとに所在地・等級・面積・石高・名請人を記録しました |
設問4~5:サン=フェリペとドン・ロドリゴ事件
設問4は、16世紀後半における日本と諸外国との関わりについての正誤判定です。
消去法は細かい知識が必要なため微妙です。選択肢3の記述からサン=フェリペ号事件に気付き正解に至るのが良いです。
| 選択肢 | 誤っている部分 | 正しくは |
|---|---|---|
| [1] | 太平洋・大西洋を横断して渡欧した | 天正遣欧使節(1582年出発)は、マカオ・ゴアを経由してインド洋を進み、喜望峰を回ってリスボンに着きました。太平洋・大西洋を横断するメキシコ経由の航路をとったのは、1613年の慶長遣欧使節(支倉常長)です。 肥前有馬のセミナリオで学んだ4人の少年という部分は正しく、セミナリオはイエズス会が作った初~中等教育機関です。 |
| [2] | フランシスコ会に寄進された | 1580年に大村純忠が寄進した相手はイエズス会です。1549年に来日したザビエルもイエズス会。上智大学もイエズス会。 |
| [3] | 無し→正解 | 1596年のサン=フェリペ号事件です。土佐浦戸に漂着したスペイン船の乗組員を増田長盛が取り調べ、積荷を没収しました。翌1597年の26聖人殉教につながります |
| [4] | 硫黄が日本にもたらされた | 硫黄は日本からの輸出品です。生糸・絹織物・鉄砲・硝石が輸入された部分は正しく、日本からは銀・刀剣・硫黄などが輸出されました。 |
正解は選択肢3の「暴風雨のため土佐浦戸に漂着したスペイン船の乗組員が尋問を受け、積荷を没収された」で、これは1596年のサン=フェリペ号事件を指しています
なお、1596年のサン=フェリペ号事件は、スペイン船員の失言(スペインは布教を先兵として領土を広げているという趣旨の発言)がきっかけで、豊臣秀吉によるキリスト教弾圧が強まる契機になったとされる出来事です。

設問5は、17世紀前半の対外関係についての正誤判定です。
正解は選択肢1の「上総に漂着した前ルソン臨時総督が、新たに船を与えられ、京都の商人らを同行して帰国を果たした」で、これは1609年のドン・ロドリゴ漂着事件です。
ドン・ロドリゴ漂着事件の何が凄いかと言えば、日本とメキシコの歴史はここが始まりなのです!!!
| 選択肢 | 誤っている部分 | 正しくは |
|---|---|---|
| [1] | 無し→正解 | 1609年のドン・ロドリゴ漂着事件。 前ルソン臨時総督ドン・ロドリゴが上総(岩和田)に漂着しました。徳川家康は翌1610年に船を与え、京都の商人・田中勝介らを同行させてノビスパン(メキシコ)へ送り返しました。 日墨関係のスタートは1609年のドン・ロドリゴ漂着事件!! |
| [2] | インド洋・喜望峰 | 1613年の慶長遣欧使節(伊達政宗が派遣、支倉常長)は、太平洋を渡ってノビスパンに入り、大西洋を越えてスペインに着きました。 インド洋・喜望峰経由は設問4に登場した天正遣欧使節(1582年出発)の航路です。ノビスパンとの通商を求めた仙台藩主の使節という部分は正しいです |
| [3] | 幕府が平戸・長崎の商館閉鎖を命じた | イギリスはオランダとの競争に敗れ、1623年に自ら平戸商館を閉鎖して撤退しました。幕府の命令ではありません。イギリス商館は平戸だけで、長崎にはありませんでした |
| [4] | バタヴィアに移住 | 山田長政が渡ったのはシャム(現在のタイ)のアユタヤで、日本町の長としてシャム国王に重用されました。バタヴィア(インドネシアのジャカルタ)はオランダ東インド会社の拠点です |
くどいですが、日墨関係のスタートは1609年のドン・ロドリゴ漂着事件です。
設問6〜7:江戸の村政と諸産業
設問6は、江戸時代の村がどのように統治されたかについての正誤判定です。
選択肢2「村内では数戸ずつが1組にして編成され、年貢や諸役の納入・犯罪の防止などに連帯して責任を負った」が五人組の説明で、ズバリ法で正解できます。
江戸時代の村政は、領主が直接すべてを運営するのではなく、名主・組頭・百姓代などの村役人や五人組を通じて、村の内部で運営されていました。
| 選択肢 | 誤っている部分 | 正しくは |
|---|---|---|
| [1] | 領主が派遣した村役人 | 村役人(名主・組頭・百姓代の村方三役)は、村の本百姓の中から選ばれた人たちで、領主が派遣したわけではありません。年貢も村単位でまとめて納める村請制がとられたり、江戸時代の村政は自治が機能していたイメージで覚えましょう! |
| [2] | 無し→正解 | 五人組の説明です。数戸ずつを1組にまとめ、年貢・諸役の納入や犯罪の防止に連帯責任を負わせた。 |
| [3] | 田畑の規模にかかわらず | 1673年の分地制限令が禁じたのは、分割すると耕地が一定規模を下回る場合の分割相続です(名主は20石、一般の百姓は10石未満になる分割を禁止)。規模に関係なく一律に禁じたわけではありません。 |
| [4] | 常に人馬を供出する | 街道沿いの村に課された助郷役は、宿駅に常備された人馬だけでは足りないときに補充するための負担です。常に供出したわけではなく、対象も大名や幕府役人などの公用の通行が中心で、商人のためのものではありません |
設問7は、江戸時代の諸産業の発展を説明する正誤判定です。
正解は選択肢1ですが、消去法で解く問題かなと思います。
| 選択肢 | 誤っている部分 | 正しくは |
|---|---|---|
| [1] | 無し→正解 | 越後の紫雲寺潟新田は、享保期に町人が請け負って開発した町人請負新田の代表例。大坂の鴻池新田と並べて覚えておきたい新田。 |
| [2] | 敦賀・大津を経て | 河村瑞賢(江戸の商人)が1672年に整備した西廻り航路は、出羽酒田から日本海沿岸を南下し、下関から瀬戸内海に入って大坂へ、そして江戸へ至るルートです。 敦賀で荷揚げして琵琶湖を通り大津へ運ぶのは、西廻り航路ができる前の輸送路です |
| [3] | 九十九里浜の漁民から瀬戸内や紀州熊野の漁民に伝えられ | 伝わった方向が逆です。 網を使う上方漁法(地曳網など)は、紀伊・和泉などの上方の漁民が関東へ出漁して九十九里浜などに伝えました。 |
| [4] | 入浜式から揚浜式へ | これも逆です。瀬戸内の製塩業では、人力で海水をくみ上げる揚浜式から、潮の干満を利用して海水を引き入れる入浜式へと発展しました。 |
新田開発というと領主主導のイメージを持ちがちですが、資本力のある町人が投資して開発を担うケースも江戸時代には珍しくありませんでした。
設問8〜9:四木三草と藩政の儒学者
設問8は、「四木三草」に含まれないものを選ぶ設問です。
四木は茶・桑・楮・漆、三草は麻・藍・紅花を指すのが一般的な理解で、選択肢の中で唯一これに含まれないのは選択肢5の檜です。
檜は「四木三草」には含まれないので、正解は5です。「四木三草」は語呂合わせで覚える受験生も多いので、単純な知識問題です。
設問9は、江戸時代前期のある藩主(仁政を掲げ「乱世の忠」から「無事の忠」への転換を家臣に求めた人物、岡山藩主の池田光政を指すと考えられます)のもとで活躍した儒学者の事績についての正誤判定です。
4つとも前半は正しく、後半の思想や人間関係の部分だけを別のものに差し替えた選択肢です。
| 選択肢 | 誤っている部分 | 正しくは |
|---|---|---|
| [1] | 薩摩藩主に仕えて | 野中兼山が仕えたのは土佐藩(山内氏)で、家老として新田開発や産業振興を進めました。 谷時中に学んだ南学の系統という部分は正しいですが、山崎闇斎は兼山の師ではなく、同じ谷時中に学んだ同門にあたります。 |
| [2] | 神は仏の化身、権現であるとする思想 | これは本地垂迹説で、山崎闇斎の思想ではありません。 山崎闇斎が唱えたのは、儒学(朱子学)と神道を結びつけた垂加神道です。会津藩主の保科正之に招かれたという前半は正しいです。 |
| [3] | 無し→正解 | 熊沢蕃山は陽明学者で、池田光政に仕えて治績を挙げました。 晩年、「大学或問」で幕政を批判したと咎められ、下総古河に幽閉されました。 |
| [4] | 林信篤ら多くの門人を育てた | 木下順庵の門人は、新井白石・室鳩巣・雨森芳洲らです(木門)。 林信篤(鳳岡)は林羅山の孫で、林家の人物です。 加賀藩主の前田綱紀に仕えた後、幕府の儒官となり将軍綱吉の侍講を勤めた部分は正しいです。 |
儒学者の系譜は師弟関係が入り組んでいるので、藩や人物、さらに一歩踏み込んで内容まで整理しておきましょう。
史料②:天保期の帰農政策
在方より当地え出居候者、故郷え立帰度存じ候得共、路用金調難く候か、立帰候ても夫食、農具代など差支候ものは、町役人差添願出づべく候。吟味の上夫々御手当下さるべく候。
若村方に故障の儀之有るか、身寄の者之無く、田畑も所持致さず、故郷の外二ても百姓に成申し度存じ候ものは、前文の御手当下され、手余地等之有る国々え差遣し、相応の田畑下さるべく候。
(『御触書天保集成』)
現代語訳例
地方から江戸に出てきている者で、故郷へ帰りたいと思っているものの、旅費が用意できない、あるいは帰っても食料や農具代などに困るという者は、町役人が付き添って願い出るようにしなさい。取り調べのうえで、それぞれに手当を与えます。
もし村方に差し支えがあるか、身寄りがなく田畑も持たず、故郷以外の土地でも百姓になりたいと望む者は、前述の手当を与えたうえで、余っている土地のある国々へ差し向け、相応の田畑を与えるようにしなさい。
まずは史料の判別です。江戸に流入した人々を、手当を出してでも農村に帰そうとする内容で、出典にも「天保」とあります。
そこから、江戸末期水野忠邦の「天保の改革」の「人返しの令」かな、と当たりがつきますが、これが引っ掛けで、「人返しの令」の中身も問われる問題でした。
実際には、1790年(寛政2年)、松平定信が「寛政の改革」の中で出した「旧里帰農令」です。天明の飢饉で農村から江戸へ流れ込んだ人々に、旅費や食料・農具代を支給して村へ帰らせようとしました。あくまで「帰りたい者は願い出よ」という奨励で、ポイントは強制感がないことです。
ここは出典の「御触書天保集成」は天保期にまとめられた法令集の名前で、中身の年代とは関係ありません。「人返しの法」は江戸に出てきた農民を強制的に帰村させる法令なので、「手当を出して願い出させる」史料②とは性格がまるで違います。
| 比較項目 | 旧里帰農令 | 人返しの法 |
|---|---|---|
| 改革 | 寛政の改革(1790年) | 天保の改革(1843年) |
| 実施した人物 | 松平定信 | 水野忠邦 |
| 背景 | 天明の飢饉で農村から江戸へ人が流れ込んだ | 天保の飢饉で江戸へ流れ込む人が増えた |
| 強制の有無 | 奨励(帰りたい者は願い出よ) | 命令(帰村させ、新たな流入も禁止) |
| 主な内容 | 帰村を望む者に旅費・食料・農具代などの手当を支給する | 新たに江戸の人別に入ることを禁じ、出稼ぎなどで江戸にいる者を村へ帰らせる |
| 結果 | 応じる者はごくわずかだった | 十分な効果は上がらなかった |
史料②は「願い出づべく候」「御手当下さるべく候」と、手当を出して願い出させる書き方なので、奨励型の旧里帰農令だと判断できます。
寛政の奨励策では効果が上がらなかったこともあり、天保の改革ではより強い命令の形がとられました。(どちらも効果は微妙でしたが)
ただし!次の設問10の選択肢が全て「寛政の改革」時の話なので、天保だと勘違いしてもそこで気づくことができる、お助け設定にはなっています。
設問10:寛政の改革の施策
「史料②と同時期の施策」とあるので、時代判別問題かと思いきや、4つの選択肢がすべて寛政の改革です。
そのため、寛政の改革の単純な知識問題という、肩透かし問題になります。
| 選択肢 | 誤っている部分 | 正しくは |
|---|---|---|
| [1] | 過去一切の | 棄捐令の知識問題。1789年の棄捐令が札差に放棄させたのは、6年以上前(天明4年以前)の貸付金だけです。それより後の借金は、利子を下げて年賦で返済させました。すべて帳消し、無利息というわけではありません |
| [2] | 江戸北町奉行 | 1790年に石川島(隅田川の河口)に人足寄場を設けたのは、火付盗賊改の長谷川平蔵の建言によるものです。無宿人を収容して職業訓練を行ったという部分は正しいです。 町奉行系で出題される、大岡越前(大岡忠相)は「享保の改革」、遠山の金さん(遠山景元)は「天保の改革」で登場するので、時代を整理してね。 |
| [3] | さまざまな学派の儒学の研究・教授を奨励した | 1790年の寛政異学の禁の知識問題。これは朱子学を正学とし、湯島聖堂の学問所で朱子学以外の講義を禁じました。さ |
| [4] | 無し→正解 | 1791年の七分積金の知識問題。江戸の町費(町入用)を節約させ、節約分の7割を積み立てて江戸町会所で運用し、囲籾や貧民救済に充てました |
長谷川平蔵は「鬼平犯科帳」の鬼平のモデルになった人物です。
人足寄場は、この鬼平が実際に手がけた更生施設で、今風に言えば刑務所に近い場所だと覚えておいてください。
現在は、もんじゃ焼きで有名な月島近くで「石川島灯台」として名残を残しつつ、タワマンの公園になってます。涙出そう。
設問11:江戸後期の経世家
設問11は、江戸時代後期の経世家の著作とその内容についての正誤判定です。
正解は選択肢3の「海保青陵は、「稽古談」を著し、商業蔑視の風潮を批判し、営利追求の正当性を主張した」です。
著者と著作名は一致しているので、思想の中身が一致しているか問う問題です。
| 選択肢 | 誤っている部分 | 正しくは |
|---|---|---|
| [1] | 藩専売制の実施を唱えた | 本多利明が「経世秘策」で説いたのは富国論(開国して外国と貿易し、蝦夷地開発や鉱山開発で国を富ませる)です。 藩専売(藩が商売をして利益を上げる)を唱えたのは、[3]の海保青陵。 |
| [2] | 万人が自ら耕作して生活する自然の世を理想と論じた | 山片蟠桃は大坂の町人学者で、「夢の代」で地動説を紹介し、霊魂の存在を否定する無鬼論を唱えました。 後半の内容は、安藤昌益の「自然真営道」の内容(万人直耕)です。 |
| [3] | 無し→正解 | 海保青陵は「稽古談」で、商業を卑しいものとする武士の風潮を批判し、営利追求の正当性を説きました。藩も積極的に商売をして財政を立て直すべきだという主張です。 |
| [4] | 四大急務と称して | 佐藤信淵は「経済要録」で、産業の国営化や海外進出を説きました。 「四大急務」(焔硝・諸金・船舶・属島開業)は[1]の本多利明が「経世秘策」で挙げたものです。 |
蟠桃=桃の名前的にも注目なのが「山片蟠桃」で、大阪の豪商です。
ちなみに、山片蟠桃も学んだ「懐徳堂」の流れを汲むのが、大阪大学文学部と言われています。
設問12:幕末の対外関係
設問12は、18世紀半ば以降の対外関係に関する出来事(a)から(e)を年代順に並べる問題です。
正解は[4](c)−(b)−(e)−(d)−(a)です。年代の古い順に並べると次のとおりです。
| 記号 | 用語・出来事 | 18XX年 | 補足 |
|---|---|---|---|
| (c) | フェートン号事件 | 08 | 文化5年。オランダ船を捕らえる目的でイギリス軍艦が長崎湾に侵入し、薪水・食料を強奪。 長崎奉行の松平康英が責任を取って自害。 |
| (b) | 大津浜事件 | 24 | 文政7年。イギリスの捕鯨船員が常陸大津浜に上陸し、薪水・食料を要求。 翌1825年の異国船打払令のきっかけの一つ。 |
| (e) | モリソン号事件 | 37 | 天保8年。日本人漂流民を送り届け、通商を求めたアメリカ商船が浦賀沖などで砲撃された。 これを批判した渡辺崋山・高野長英が蛮社の獄(1839年)で処罰された。可哀想。 |
| (d) | 天保の薪水給与令 | 42 | アヘン戦争での清の敗北を知った幕府が、異国船打払令をやめて薪水・食料を与えて退去させる方針に改めた。 |
| (a) | 五港通商章程 | 43 | アヘン戦争後、1842年の南京条約に続いて結ばれた追加の不平等条約。 清がイギリスの領事裁判権を認め、関税自主権を失った。世界史の範囲。 |
流れとしては、
(c)(b)で外国船の脅威が強まる
→ 1825年に異国船打払令で強硬策に出る
→ (e)でその打払いを実行
→ アヘン戦争を見て(d)で方針を軟化
です。
(d)と(a)はどちらもアヘン戦争がらみで年も近いので、「日本の方針転換(1842年)→ 清の追加条約(1843年)」の順番で押さえておくと迷いません。
設問13は、江戸時代後期の藩政改革の事例についての正誤判定です。
正解は[2]ですが、これをスバリ法で解くのは難しく、他選択肢のメジャー用語を消去法で解く問題です。
| 選択肢 | 誤っている部分 | 正しくは |
|---|---|---|
| [1] | 藩校集成館を設けて人材育成に努めた | 集成館は藩校ではなく、島津斉彬が鹿児島に建てた洋式工場群(反射炉・溶鉱炉・ガラス製造など)です。薩摩藩の藩校は造士館です。 調所広郷を登用して黒砂糖の専売で財政を立て直した前半は正しい。(島津斉興の時) |
| [2] | 無し→正解 | 長州藩では村田清風が改革を進め、下関に越荷方を置いて、寄港する廻船の積荷を担保に資金を貸し付けたり、積荷を保管・委託販売したりして利益を上げました。 |
| [3] | 坂本龍馬ら改革派の藩士を登用し | 坂本龍馬は土佐藩を脱藩した浪士で、藩に登用されて改革を担った人物ではありません。 山内豊信(容堂)が吉田東洋を登用して改革を進めた部分は正しい。 |
| [4] | 幕府が伊豆韮山に設けた反射炉から技術を学んで | 順序が逆です。佐賀藩(鍋島直正)は1850年に日本で初めて本格的な反射炉を築き、幕府の韮山反射炉(江川英龍)のほうが佐賀藩の協力を得て建造されました。 陶磁器(有田焼)の専売で財政を改善し、領内2か所(築地・多布施)に反射炉を築いた部分は正しい。 |
大問Ⅳ:若槻礼次郎の回顧録に見る近代政治外交
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