慶應文学部2014日本史大問4~5史料問題現代語訳

大問4:室町戦乱と中央文化

提示された史料は、室町時代から戦国時代にかけての日記や記録の抜粋であり、以下の内容を含んでいます。

  • 史料(イ):応永30年(1423年)に関東の情勢について、諸大名が京都に集まり協議した様子
  • 史料(ロ):文安3年(1446年)に能登守護畠山義忠邸で月次会(定期的な集まり)が催された様子
  • 史料(ハ):文明9年(1477年)に応仁の乱終盤の様子や、大名たちの動向
  • 史料(ニ):永正3年(1506年)に越前国の朝倉氏が屏風を新調したこと
  • 史料(ホ):享禄2年(1529年)に清三位入道が能登国から上洛したことや、大名間の文化的交流

細かい大名の名前が出てきますが、この辺りの大名勢力図を理解するために、応仁の乱の勢力図はガチっと頭にいれておきましょう!

山﨑 圭一著「一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書」より

大問4:解答

問1:足利持氏(関東公方として幕府と対立し、永享の乱(1438)を引き起こした人物)

問2:畠山満家

問3:足利義持(4代将軍で、将軍職退任後も幕府の実権を保持し、政治の最終決定権を握っていた)

問4:山名持豊(=山名宗全)

問5:新撰菟玖波集(連歌七賢の作品を中心に収録された連歌集であり、当時の連歌の隆盛を示す資料)

問6:足利義視(足利義政の弟であり、応仁の乱では西軍の総大将として担ぎ出されました。問題が応仁の乱の発端であれば足利義視は東軍になりますが、それ以降は西軍になります。問題は、1477年で応仁の乱終盤なので、大内→山名→西軍→足利義視といったプロセスで解答します)

山﨑 圭一著「一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書」より

問7:洛中洛外図屏風(京都の市街地とその周辺を描いた屏風絵であり、当時の風俗や景観を知る上で貴重な資料)

問8:長谷川等伯(能登国出身の絵師で、狩野派とは異なる独自の画風を確立した人物)

問9:戦乱の時代、大名たちは中央の文化を取り入れることで、自らの権威を高め、領国統治を安定させようとした。また、文化交流は外交や情報収集の手段でもあった。(79字)

大問4:史料の現代語訳例

あくまで訳例であることをご承知ください。

史料(イ) :幕府による守護の政治動員

応永三十年(1423)七月五日・・・・・・関東の事につき、畠山修理大夫入道(満慶、能登守護)と同道せしめ、管領亭に罷り向かふ。かの亭に於て、諸大名等悉く召し集む………………細川右京大夫(満元)・武衛(斯波義淳)・山名・赤松・一色・今河等参る。大内入道、召さるると雖も、所労により参らず。

応永30年(1423)7月5日

関東の情勢について、畠山修理大夫入道(満慶/能登守護)に同行して、管領の屋敷へ向かった。その屋敷には、諸大名が皆召し集められていた。

細川右京大夫(満元)、武衛(斯波義淳)、山名、赤松、一色、今河(今川)などが参列していた。大内入道は、召集されたものの、病気のため欠席した。

室町中期の政治状況を示す史料です。関東の鎌倉公方足利持氏の動向という幕府の重大課題をめぐり、有力守護が管領邸に集められ、合議が行われています。

この時期の在京守護は、幕府の意思決定を担う政治的・軍事的な動員対象であったことが分かります。

出典予想: 『満済准后日記』

史料(ロ) :在京守護の文化的交流

文安三年(1446)正月廿日、畠山修理大夫入道賢良(義忠。満慶子、能登守護)家にて月次会始………………出題飛鳥井中納言入道、読師同じ、講師(高山)崇砌。人数は飛鳥井・亭主・一色左京大夫(教親、伊勢・丹後守護)・予・正徹・春日三位入道・畠山次郎・円雅・(杉原)賢盛・常勲・心恵・正晃・忍誓・常佐・(蜷川)智蘊・宗砌以下数輩なり。

文安3年(1446) 正月20日

畠山修理大夫入道賢良(義忠。満慶の子、能登守護)の屋敷にて、新年最初の月次歌会が催された。

出題は飛鳥井中納言入道、読師(進行)も同じ、講師(歌を読み上げる役)は高山崇砌。

参加者は、飛鳥井、亭主、一色左京大夫、私、正徹、春日三位入道、畠山次郎、円雅、(杉原)賢盛、常勲、心恵、正晃、忍誓、常佐、(蜷川)智蘊、宗砌以下数名でした。

京都に住む守護大名の屋敷が、高度な文化的サロンとなっていたことを示します。

公家や僧侶などの専門文化人を交えた交流は、大名にとっての教養であると同時に、政治的な人脈形成の場でもありました。

出典予想:『看聞日記』

史料(ハ) :応仁の乱の終結と西軍の崩壊

文明九年(1477)十一月十一日・・・・・・戌刻ばかり、敵陣に回禄あり。今日、大内多々良政弘朝臣以下、陣払と云々・・・・・・土岐(成頼)以下、悉く没落と云々。今出川殿、同じく御没落と云々。

文明9年(1477) 11月11日

戌の刻(午後8時頃)に、敵陣(西軍の陣)で火災があった。今日、大内政弘の一行は陣払い(撤収)をして京を去ったという。

土岐成頼らも皆没落(敗走・撤退)したという。今出川殿(足利義視)も同じく没落(敗走・撤退)したということだ。

応仁の乱が事実上終結した局面の記録です。大内政弘・土岐成頼・足利義視はいずれも「西軍」の主要メンバーであり、彼らが一斉に京都を放棄して領国へ帰った(没落した)ことで、11年にわたる大乱が幕を閉じました。

出典予想:『宣胤卿記』。

史料(ニ) :地方大名による中央文化の受容

永正三年(1506)十二月廿二日………………越前朝倉、屏風を新調す。一双に京中を画く。土左刑部大輔の新図、尤も珍重の物なり。一見して興あり。

永正3年(1506) 12月22日

越前の朝倉氏が屏風を新調した。一双に京中の様子を描いている。

宮廷絵師・土佐光信による新しい図案であり、非常に貴重なものである。一見して興をそそる見事なものであった。

戦国大名となった越前朝倉氏が、京都の最高権威である絵師に「最新の京都」を描かせた事例です

応仁の乱後、政治の中心が地方へ分散する中で、地方大名が自らの威信を示すために、京都の先進的な芸術・文化を積極的に取り込もうとした様子が窺えます。

史料(ホ) :文化の地方伝播と知識の獲得

享禄二年(1529)八月廿日………………清三位入道、能州より一昨日上洛すと云々。大守書状・柳一荷・両種、これを携ふ・・・・・・雑談す。講尺七十余度の由、これを申す。

享禄2年(1529) 8月20日

学者の清原宣賢(清三位入道)が、能登から一昨日帰京したという。

能登国主の畠山義総からの書状や進物を持参して訪ねてきた。能登滞在中、義総らに対し70回以上もの講釈(古典・学問の講義)を行ったと報告していた。

京都の学者が地方大名に招かれ、長期間滞在して高度な学問を伝授していた実態を示します。

戦国期において、京都の知的水準は地方(この場合は能登七尾)へと直接波及し、地方都市が独自の文化圏(小京都)として発展していく過程を象徴する史料です。

大問5:前島密と郵便制度

前島密氏は我国郵便制度の創始者として、已に男爵を授けられ、新たに華族に列したるが、此制度を初めて我国に移入したるは、果して前島新男爵のみの功か、少くとも氏をして此大業を遂げしめたるもの他になかりしか、之に対して世に疑を抱くものあり。

疑ふものは先づ前島氏の直話に付きて其年月の正確ならざることを言へり。曰く、前島氏は明治三年駅逓権正となり、翌四年八月駅逓頭となれりといへり。然れども我国に於て初めて駅逓正なるもの置かれしは、実に明治四年、廃藩置県の発表となりたる後のことなり。前島氏が其以前に駅逓権正となりたりといふは記憶違ひなる可し。

且つ最初前島氏が駅逓権正たりしとすれば、其上に駅逓正なるものありしは明かなり。其駅逓正は紀州の大故濱口儀兵衛翁(号梧陵)なり。

当時翁の交遊したる人物は勝安芳伯、福澤諭吉氏を始めとして、相尋で世を去り、能く翁の履歴を知るもの少きも、同じく和歌山県人にして当時翁と相携へ、大蔵省に出仕したる山本広氏のみは今尚健在なりといふ。記者仍りて氏に就て翁の履歴を聞くに、氏は曰く、

明治四年大蔵省に駅逓正なる職の初めて置かれし時に、最初に其の職に就きたるは濱口翁なり。余は翁と始終親しく交際したるが、翁は就任の当時飛脚屋の親方となれりとて人に笑はれたること度々あり。前島密氏が何時洋行し何時帰られたるかは余の知る所にあらざれども、明治五年頃濱口氏が駅逓正たりし時に、其下に前島氏が権正として働かれたるを記憶す。勝伯の選みたる梧陵翁の碑文にも「明治四年和歌山藩権大参事歴任駅逓正及駅逓頭」とあり。去れば郵便創始の名誉は前島氏の専有に帰す可からず。今回の祝典に翁の名の称せられざりしは遺憾なりといふべし。

【現代語訳:意訳】

前島密氏は、日本の郵便制度の創始者として、すでに男爵の位を授けられ、新たに華族の仲間入りをしました。しかし、この制度を初めて日本に取り入れたのは、果たして前島男爵一人の功績でしょうか。少なくとも、彼にこの大事業を成し遂げさせた他の人々はいなかったのでしょうか。この点について、世間には疑問を抱く者がいます。

疑問を持つ人々は、まず前島氏自身の話に基づいて、その年月が正確ではないと言っています。前島氏は「明治3年に駅逓権正(えきていごんのかみ)となり、翌4年8月には駅逓頭(えきていがしら)になった」と言っています。しかし、わが国で初めて駅逓正という役職が設けられたのは、実に明治4年、廃藩置県の発表後なのです。前島氏がそれ以前に駅逓権正になっていたというのは、記憶違いでしょう。

さらに、最初に前島氏が駅逓権正であったとすれば、その上位職である「駅逓正」が存在したことは明らかです。その駅逓正こそ、紀州の大物であった故・濱口儀兵衛翁(号は梧陵)です。

当時、濱口翁と親交のあった勝海舟や福澤諭吉といった人物は次々と世を去り、翁の経歴を詳しく知る者も少なくなりました。しかし、同じ和歌山県人で、当時濱口翁と共に大蔵省に出仕した山本広氏だけは今も健在です。そこで、記者が山本氏に濱口翁の経歴を尋ねたところ、山本氏は次のように語りました。

「明治4年に大蔵省に駅逓正という役職が初めて設けられた時、最初にその職に就いたのは濱口翁です。私は濱口翁と始終親しく交際していましたが、濱口翁は就任当時、『飛脚屋の親方になった』と人にからかわれたことが度々ありました。前島密氏がいつ洋行し、いつ帰国したかは私の知るところではありませんが、明治5年頃に濱口氏が駅逓正であった時に、その下で前島氏が権正として働いていたのを記憶しています。勝伯(勝海舟)が選んだ梧陵翁の碑文にも『明治四年和歌山藩権大参事歴任駅逓正及駅逓頭』とあります。ですから、郵便創始の名誉を前島氏だけのものとすることはできません。今回の祝典で濱口翁の名前が称えられなかったのは、遺憾というほかありません」

前島密が後年に「郵便の父」として独占的に顕彰されることに対し、当時の実務を共にした関係者側が異議を唱えた、顕彰のあり方をめぐる史料です。

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