慶應文学部:日本史大問4~5史料問題の現代語訳

慶應文学部大問4~5で例年出題される、日本史史料問題の現代語訳です。順次作成しますので、現代語訳希望の年度があればお知らせください。

なお、文学部をはじめ慶應の史料問題は、基本的に初見史料が出題されます。

典型問題は出題されませんが、勘所を押さえておくためにも、下記のような典型史料問題集を一通りさらっておくことをオススメします。

日本史が得意な人(河合塾偏差値65以上推奨)は、過去問形式の問題も付いている土屋の日本史がオススメです。

慶應文学部2024日本史:大問4~5

大問4:北条家の人々

鎌倉時代の北条家がメインテーマ。文学部の記述での同テーマは2015年以来の印象です。

(イ)牧御方が姦謀を廻らし、朝雅を以て関東将軍となし、当将軍家(時に遠州亭に御坐す)を謀るべきの由、その聞こえあり。仍て尼御台所……羽林を迎え奉られ、即ち(北条義時)亭に入御す……遠州俄かに以て落飾せしめ給う(年六十八)。

【現代語意訳】

牧の方(北条時政の妻)が陰謀を企て、平賀朝雅を関東将軍にしようとし、現在の将軍家(源実朝。時に遠州の館にいらっしゃる)を害そうとしているという噂が立った。

そこで尼御台所(北条政子)は……有力な者を迎え入れ、すぐに北条義時の館に入りました。……遠州(北条時政)は急遽出家させられました(時に68歳)。

「吾妻鏡」にある「牧の方事件」の一場面です。

北条時政の後妻である牧の方が、娘婿である平賀朝雅(ひらが ともまさ)を将軍にしようとし、源実朝排除を画策したことが記述されています。最終的にこの企ては失敗し、時政は失脚、出家させられます。

なお、北条時政→義時→泰時の親子関係で、大河「鎌倉殿の13人」は義時が主人公、義時の姉が北条政子です。

相澤理著「歴史が面白くなる 東大のディープな日本史 傑作選」より

(ロ)伊豆国在庁(北条時政)の子孫東夷等、承久以来、四海を掌に採り、朝家を蔑如し奉るの処、頃年の間、殊に、高時相模入道の一族、ただに武略芸業を以て朝威を軽んずるのみならず、剰え当今皇帝を隠州に左遷し奉り、宸襟を悩まして国を乱すの条、下剋上の至り、甚だ奇怪の間、且つは成敗を加えんがため、且つは還幸を成し奉らんがため、西海道十五箇国の内の群勢を召し集めらるるところなり。

「太山寺文書」より:護良親王令旨

【現代語訳:意訳】

伊豆国の在庁官人であった北条時政の子孫である東夷(東国の武士たち)は、承久の乱以来、天下を支配し、朝廷を軽んじているが、近年の間、特に北条高時とその一族は、武力や武芸をもって朝廷の権威を軽んじるだけでなく、さらに今の天皇(後醍醐天皇)を隠岐の島に流罪にし、天皇の心を悩ませ、国を乱している。

これは下剋上の極みであり、まことに奇怪なことである。そこで、彼らを討伐するため、また天皇の帰還を実現するため、西海道の十五か国の武士たちを集めているのである。

鎌倉幕府末期、後醍醐天皇の皇子である護良親王が、幕府の専横を非難し、倒幕を呼びかける内容です。

北条高時をはじめとする北条氏一族の専横を非難し、朝廷を軽んじていること、天皇を隠岐に流罪にしたことなどを糾弾しています。倒幕の正当性を主張する内容です。

なお、北条高時と言えば鎌倉北条氏最後の執権で、鎌倉幕府滅亡の象徴的なところがあります。そのため漫画「逃げ上手の若君」第1話では愚王として描かれています。

松井優征著「逃げ上手の若君」第1話 より

(ハ)或時、徳宗領二沙汰出来テ、地下ノ公文ト相模守ト訴陳二番事アリ。理非懸隔シテ、公文が申処道理ナリケレ共、奉行・頭人・(評定衆)皆徳宗領二憚テ、公文ヲ負シケルヲ、青砥左衛門只一人、権門ニモ不恐、理ノ当ル処ヲ具二申立テ、遂二相模守ヲゾ負シケル。

「青砥左衛門の事」

【現代語意訳】

ある時、徳宗(北条家の本家)の領地に関して二件の訴訟が起こり、地方の役人と相模守(北条氏の一族)との間で争いがあった。

道理の是非は明らかで、役人の言い分が正しかったのだが、奉行や頭人、評定衆といった役人たちは皆、徳宗の領地であることを憚(はばか)って、役人に不利な裁定を下した。

しかし、青砥左衛門というただ一人の人物が、権力者を恐れることなく、道理にかなうことをすべて申し立て、ついに相模守に不利な裁定を勝ち取った。

徳宗の領地に関する訴訟の場面。

公文(役人)の主張が正当であるにもかかわらず、奉行や頭人、評定衆といった幕府の役人たちが徳宗の権力を恐れて公文に不利な裁定を下しました。

しかし、青砥左衛門という人物が、権力に屈することなく正論を主張し、最終的に相模守(北条氏の一族)に有利な裁定を覆したという話。権力におもねることなく正義を貫く人物を描いています。

なお、青砥左衛門は浮世絵や歌舞伎に登場はするものの、「吾妻鏡」での言及はなく、実在かどうかは不明です。

大問5:前川レポートとバブル経済

1986年に発表された前川レポート(正式名称:「国際協調のための経済構造調整研究会報告書」)からの出題。

前川レポートは、当時の内閣総理大臣であった中曽根康弘氏の私的諮問機関である経済構造調整研究会がまとめた報告書です。座長を務めたのは、元日本銀行総裁の前川春雄氏であり、このことから「前川レポート」という通称で広く知られています。

既に現代日本語ですが、段落ごとにもう少し内容を噛み砕いでみましょう。

我々は昭和60年10月31日、内閣総理大臣から、我が国をめぐる近来の国際経済の環境変化に対応して、中期的な視野から、我が国の今後の経済社会の構造及び運営に関する施策のあり方を検討するよう要請を受けた。

【意訳】

私たちは1985年10月31日に、総理大臣(当時の中曽根康弘首相)から、最近の国際的な経済の変化に対応するために、日本の経済や社会の仕組み、運営方法をどう変えていくべきか、中長期的な視点で考えるように頼まれました。

昭和60年を答えさせる問題がありますが、問題からプラザ合意のことがわかり、そこから年号がわかります。

プラザ合意の年号1985年と中曽根総理は頻出ですので覚えてください。なお昭和年号の出し方ですが、以下の年数を西暦下二桁から引くと各元号年になります。

  • 明治67
  • 大正11
  • 昭和25

今回は85年➖25年=昭和60年です。

逆に足すと各元号年になります。例えば「明治6年の政変」は6+67=1873年です。

我が国の大幅な経常収支不均衡の継続は、我が国の経済運営においても、また、世界経済の調和ある発展という観点からも、危機的状況であると認識する必要がある。

【意訳】

日本が貿易で大きな黒字を出し続けている状態は、日本の経済運営にとっても、世界の経済が仲良く発展していくためにも、良くない状態だと認識する必要がある

重要な箇所です。

当時の日本は、輸出が非常に好調で、海外からたくさんの物を買ってもらっていました。しかし、あまりにも黒字が大きすぎたため、海外から「日本ばかり儲けている」と批判されるようになっていました。これが「経常収支不均衡」です。

そのためアメリカ視点に立つと、プラザ合意によってドル高是正(=ドル安=円高)しアメリカの貿易赤字を削減しようとしました。

国際協調型経済を実現し、国際国家日本を指向していくためには、内需主導型の経済成長を図るとともに、輸出入・産業構造の抜本的な転換を推進していくことが不可欠である。同時に、適切な為替相場の実現及びその安定に努め、また、金融資本市場の自由化・国際化を一段と押し進めていく必要がある。

基幹的な農産物を除いて、内外価格差の著しい品目(農産加工品を含む)については、着実に、輸入の拡大を図り、内外価格差の縮小と農業の合理化・効率化に努めるべきである。

【意訳】

国際社会と協力していく経済を実現し、国際社会の中で責任を果たす日本を目指すためには、輸出に頼るだけでなく、国内でお金が回るように経済成長を進め、輸出入や産業の構造を大きく変えていく必要がある。同時に、為替レートを適切な水準に保ち、金融市場を海外にもっと開放していく必要がある。

重要な農産品を除いて、海外と比べて値段が大きく違う物(農産加工品を含む)については、積極的に輸入を増やし、値段の差を小さくし、日本の農業ももっと効率的にしていくべきだ。

「内需主導型経済」とは、簡単に言うと、海外に物を売るだけでなく、国内でお金が使われるようにする経済のことです。例えば、国内で新しい商品やサービスが開発されたり、国内旅行が盛んになったりすることで、お金が国内で循環するようになります。

当時の日本では、海外の製品に比べて、国内の製品、特に農産品が高価でした。そのため、輸入を増やすことで、消費者は安い物を買えるようにし、日本の農業も海外と競争できるように効率化する必要があるとされたのです。

前川レポートがバブルに影響を与えた要因

前川レポートの提言自体は、当時の日本経済の課題に対応するためのものでしたが、その実現のために行われた政策が、結果的にバブル経済を助長する要因となりました。

  1. 金融緩和政策: 内需拡大のために、金融緩和政策が積極的に行われました。具体的には、金利の引き下げや金融機関への資金供給量の増加などが実施されました。これにより、市場に過剰な資金が供給され、低金利環境が長期化しました。この低金利環境が、企業や個人の過剰な投資や投機を助長し、不動産や株式市場への資金流入を加速させました。
  2. 規制緩和と金融自由化: 金融市場の自由化が進められましたが、適切な監督体制が整備されないまま自由化が進んだため、金融機関による過剰融資や不動産投機が横行する要因となりました。
  3. 土地神話の助長: 低金利環境と金融緩和によって、不動産投資が過熱し、地価が急騰しました。「土地神話」と呼ばれる、土地の価格は絶対に下がらないという考え方が広まり、投機的な土地取引が横行しました。これも、金融緩和によって過剰な資金が不動産市場に流入したことが大きな要因です。

雑にまとめると

超低金利政策 → 銀行がお金を貸しまくる → 実態を超えた地価や株価 → バブル景気

といった感じです。最後の記述問題も、上記をカタい言葉で書くと点数がきます。

前川レポートは、国際協調のための経済構造調整を目的としたものであり、その提言自体は必ずしもバブル経済を意図したものではありませんでした。しかし、内需拡大のために行われた金融緩和政策や、適切な監督体制が伴わないまま進められた金融自由化が、結果的にバブル経済を助長する要因となりました。

慶應文学部2022日本史:大問4~5

大問4:平安末期の政治と信仰

(イ)沙石集からの抜粋

丹後国の鳧鴨というところに、ある上人がいました。極楽浄土へ往生することを願い、世俗の事をすべて捨て、臨終の際に正念を払い、聖衆来迎の儀を願いました。……また、恵心僧都が脇息に座って、箸を折り、「仏の来迎」と唱えながら、何度も繰り返して念じていたという説もあります。

沙石集:鎌倉後期の僧である無住(むじゅう)が編纂した仏法説話集

来迎:臨終の際に阿弥陀仏や菩薩が浄土の世界から死者の魂を迎えにくること

恵心僧都(えしんそうず)=源信:「往生要集」を書いた僧侶

(ロ)貞観5年(863)の御霊会

5月20日(壬午の日)、神泉苑において御霊会が催されました。朝廷から左近衛中将の藤原基経や右近衛権中将の藤原常行らがこの儀式を監督するよう命じられました。王公卿や武士たちが集まり、共にこの儀式を見守りました。霊が座る場所の前には、几(ぎ)や筵(むしろ)が敷かれ、花や果物が飾られ、恭敬の念を込めて香が焚かれました。

---出題はここまで----

律師の慧達が講師となり、『金光明経』の一巻と『般若心経』の六巻を講説しました。雅楽寮の伶人たちが音楽を奏し、天皇に仕える子供たちや名家の子供たちが舞を奉納しました。さらに、唐や高麗の舞も披露され、さまざまな曲芸や音楽が披露されました。この日、勅令が出され、神泉苑の四つの門が開かれ、都の人々が自由に出入りして、この儀式を見学することが許されました。

この御霊会で祀られた霊とは、崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、橘逸勢、文室宮田麻呂などのことです。彼らは、かつて何らかの罪に問われて処刑され、その怨霊が祟りとなり、近年疫病が流行し、多くの人々が亡くなったと考えられていました。人々は、この災いはこれらの霊の祟りによるものだと考え、京畿をはじめ、外国にまで広がり、夏や秋の季節になると必ず御霊会が催されるようになりました。この儀式では、仏に礼拝し経を読んだり、歌い踊ったり、子供たちが弓を射たり、力自慢の者が相撲を取ったり、騎馬術や馬の競走、そしてさまざまな芸能が行われました。これらを見物する人々で神泉苑は埋め尽くされ、遠方からも人々が集まり、やがて一つの風習となりました。

今年の春には咳を伴う疫病が流行し、多くの人々が亡くなったため、朝廷は祈りを捧げるためにこの御霊会を催したのです。

貞観5年の御霊会は、都で猛威を振るっていた疫病の原因とされる「霊座六前(れいざろくぜん)」と言われた6名の冤魂(無実の罪で死んだ者の霊)を慰めるために行われました。

問5にもなっている霊座六前は以下の6名です。

  • 早良親王(崇道天皇)
  • 伊予親王
  • 藤原吉子(藤原大夫人 / 伊予親王の母)
  • 藤原広嗣
  • 橘逸勢(三筆の一人)
  • 文室宮田麻呂

(ハ) 福原京への遷都について

私が物事を理解できるようになってから、40年余りの歳月が過ぎましたが、世の中の不思議な出来事に何度も遭遇しました。

……治承4年の5月の頃、都が突然移されました。思いもかけない出来事です。そもそもこの京が都として定められたのは、嵯峨天皇の御代からで、すでに400年以上が経っています。

福原京:平安時代末期の治承4年(1180年)、平清盛の主導で造営が進められ約半年だけ存在した日本の首都。

(二) 慶滋保胤(よししげ の やすたね)が見た東西の都

この20年以上、東の都と西の都を見て回りましたが、西の都は、ほとんど人が住んでいなくなり、廃墟に近くなっていました。

一方、東の都の四条より北のあたりは、身分の高い人から低い人まで多くの人が集まる場所になっていました。裕福な家は立派な門や堂を建て競い合い、小さな家は壁を隔てて軒先を並べていました。

この文章は、平安時代から鎌倉時代への移り変わりの中で、都が京都から鎌倉へと移り、都市の構造が大きく変化したことを示しています。

平安京はかつて栄華を誇った都でしたが、鎌倉時代になると人が住まなくなり、廃墟と化しつつあったのに対し、鎌倉は新しい都として発展し、多くの人々が集まる活気あふれる都市となっていた様子がわかります。

(ホ) 白河法皇と法勝寺

原文
「白河に法勝寺たてられて、国王のうぢでらにこれをもてなされけるより、代々みなこの御願をつくられて、六勝寺といふ白河の御堂、大伽藍、うちつづきありけり」

慈円「愚管抄」の一説?

白河の地(現在の京都市左京区岡崎周辺)に法勝寺が建てられ、天皇がその寺で国賓をもてなすようになったことから、代々の天皇がみなこの寺を深く信仰し、法勝寺を中心に、六勝寺と呼ばれる寺々を次々と建て続け、大きな寺域を形成した。

この文章は、白河天皇が法勝寺を建立し、それが天皇家の信仰の対象となり、その後に多くの寺が建てられ、白河の地が一大仏教寺院の集まる場所になったことを示しています。

六勝寺には、法勝寺以外にも、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺などがあります。

大問5:大蔵省から開拓使への手紙

開拓使御中

「上州富岡製糸場へ修行のため、婦女子十五名程御使費を以て差し遣わされたく候間、手順且つ入費等詳細御承知なされたき」旨御申し越しの趣、承知致し候。

入費之儀ハ別紙取り調べ差し進め侯間,、委細書面にて御承知なさるべく候。

手順之儀ハ直二富岡表へ御差し向け相成り候方然るべく候えども、いよいよ御治定相成り候ハバ、御差し出し以前名前人員等御申し越しこれあり候ハバ、尚注意富岡表へ相達すべく候。

此の段回答に及び候也。

明治六年六月四日

開拓使御中

「上州富岡製糸場へ修行のため、婦人15名ほどを政府の費用で派遣したいので、手続きと費用について詳しく教えてほしい」というお申し出、承知いたしました。

費用の件については、別紙で詳しく調べてお送りしますので、そちらでご確認ください。

手続きについては、まず富岡製糸場へ直接お申し出いただくのが良いでしょう。しかし、正式に決定された際には、派遣する方々の氏名や人数などを事前にご連絡いただければ、富岡製糸場へ注意深く伝達いたします。

以上、回答とさせていただきます。

明治6年6月4日

この史料は、開拓使が富岡製糸場で女性に製糸技術を学ばせたいという要望を大蔵省へ出し、その手続きや費用について回答しているものです。

開拓使の目的:開拓使は、北海道の開拓を進める政府機関でしたが、同時に、日本の産業振興にも関与していました。富岡製糸場で女性に技術を学ばせることで、北海道でも製糸業を振興し、地域の経済発展に貢献しようとしたと考えられます。

富岡製糸場の役割:富岡製糸場は、単なる工場にとどまらず、近代的な技術や知識を日本各地に広めるための拠点としての役割も担っていました。史料が書かれた1年前の1872年(明治5年)に開業しました。

女性の労働:この史料は、女性が社会に進出し、労働者として活躍し始めたことを示す重要な証拠です。富岡製糸場には、全国から若い女性たちが集まり、厳しい労働条件の中で働きました。

慶應文学部2021日本史:大問5

大問5:新井白石と互市新例(折たく柴の記)

出典は、6代将軍・徳川家宣の侍講として幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代を担った新井白石の「折たく柴の記」。

原文

(イ) 御代つがれし初の年より、長崎港にて、海舶互市の料とすべき銅の数たらずして、交易の事行はれ難く、地下の人、産業をうしなふ由、奉行所より告げ申す事ありて、

某を召し問はる事あり。たやすく論ずべき事とも覚えず、いかにもその事の本末、おもひはかりて後に申すべし、と答申す。

それよりして奉りし前後の議草は、別に冊子となせし物共多ければ、其詳なる所は、こに記さず。

その大要は、当家代をしろしめされて、海舶互市の事始しより、此かた、凡そ百余年の間、我国の宝貨、外国に流れ入りし所、すでに大半を失ひぬ。

(中略)これより後、百年を出ず、我国の財用ことごとくつきなむ事は、智者を待たずして、其事明かなり。

【現代語訳例①】

御代が代わり、新しい時代の最初の年から、長崎港では、海を渡る貿易に必要な銅の量が不足し、交易が思うように進まなくなりました。そのため、地元の人々は生計を失いかけている、と奉行所から報告がありました。

そして私(新井白石)にその件について問うため召し出されることがありました。しかし、この問題は簡単に論じられるようなものではないと思われたので、「その事情の経緯を慎重に考えた上で、後ほど申し上げます」と答えました。

それ以降、この件について私が奉った意見や議論の草稿は多く、すでに別の冊子としてまとめられているものが多数あります。そのため、ここでは詳しく記さず、その大要だけ述べます。

まず、当家(徳川家)が政を行うようになり、海外との交易が始まってから、すでに百余年が経ちます。その間、我が国の宝である貨幣が外国に流出した量は非常に多く、その大半をすでに失ってしまっています。

これより後、百年もしないうちに、我が国の財産や資源はすべて尽きてしまうことでしょう。このことは、賢者に問うまでもなく、明らかです。

【現代語訳例②】

(イ) 現在の将軍(家宣)がご即位された最初の年から、長崎港では外国との貿易で使う銅の数が足りなくなり、交易がうまくいかず、市民たちが仕事を失っているということが奉行所から報告されました。

そこで、(私新井白石が)意見を求められたのですが、すぐに答えることができませんでした。そこで、この問題の本質を深く考え、後日改めて答えたいと申し上げました。

その後、提出した様々な意見書は、別冊子にまとめられているので、ここでは詳しく書きません。その大要は、徳川家が天下を治めて外国との貿易が始まって以来、約100年間、日本の金銀が外国に大量に流出し、すでに半分以上を失ってしまったということです。

(中略)この調子でいけば、あと100年も経たずに日本の財産がすべて尽きてしまうことは、賢い人なら誰でも分かるでしょう。

(ロ)は海舶互市新例の具体的な中身についての史料。

海舶互市新例とは、江戸幕府が1715年(正徳5年)に制定した長崎貿易に関する条例です。この条例は、新井白石の意見を基に作られ、当時の日本の経済状況、特に銅の不足と金銀の流出を改善することを目的としていました。

一、長崎表廻銅、凡一年之定数四百万斤より四百五拾万迄之間を以、其限とすべき事。(中略)

一、唐人方商売之法、凡一年之船数口船奥船合せて三拾艘、すべて銀高六千貫目ニ限り、其内銅三百万斤を相渡すべき事。(中略)

一、阿蘭陀人商売之法、凡一年之船数二艘、凡て銀高三千貫目限り、其内銅百五拾万斤を渡すべき事。

【現代語訳例①】

一つ、長崎で取り扱う銅については、1年の定められた量を400万斤から450万斤までの範囲とし、それを上限とすること。

一つ、中国商人の取引方法については、1年の船の数を大船・中船を合わせて30隻以内とし、取引の総額を銀6,000貫目に限る。そのうち、銅は300万斤を渡すこと。

一つ、オランダ商人の取引方法については、1年の船の数を2隻以内とし、取引の総額を銀3,000貫目に限る。そのうち、銅は150万斤を渡すこと。

【現代語訳例②】

一つ、長崎において、中国へ輸出する銅の量を、年間400万斤から450万斤の間とすること。

一つ、中国商人との貿易は、年間の船の数を口船と奥船を合わせて30隻とし、総額6,000貫目の銀と交換すること。そのうち、300万斤の銅を渡すこと。

一つ、オランダ人との貿易は、年間の船の数を2隻とし、総額3,000貫目の銀と交換すること。そのうち、150万斤の銅を渡すこと。

慶應文学部2018日本史:大問4~5

大問4:仏教伝来と大仏建立

(イ) 原夫れば、内経・外書の日本に伝はりて興り始めし代には、凡そ二時有りき。皆、百済の国より浮べ来りき。軽嶋の豊明の宮に宇御めたまひし誉田の天皇のみ代に、外書来りき。磯城嶋の金刺の宮に宇御めたまひし(欽明)天皇のみ代に、内典来りき。

現代語訳

そもそも、仏教経典(内経)と儒教などの経典(外書)が日本に伝わって広まり始めた頃には、おおよそ二つの時期がありました。それらはみな、百済の国から伝えられました。軽嶋の豊明宮にお住まいになられた応神天皇の御代に、儒教などの経典が伝えられました。磯城嶋の金刺宮にお住まいになられた(欽明)天皇の御代に、仏教経典が伝えられました。

(ロ) 降りて天平に及びて、弥尊重をもてす。遂に田園を傾けて、多く大寺を建つ。堂宇の崇く、仏像の大なること、工巧の妙、荘厳の奇、鬼神の製のごとくなるあり。人力の為に非ざるに似たり。また七道諸国をして国分二寺を建てしむ。造作の費、各その国の正税を用ゐたりき。ここに天下の費、十分にして五。

現代語訳

時代が下って天平の世になると、ますます仏教を尊重するようになりました。ついに多くの田畑を寺の領地にあてて、多くの大寺を建立しました。堂宇の高くそびえる様子、仏像の巨大なこと、技巧の素晴らしさ、荘厳な様子は、まるで鬼神が作ったかのようでした。人間の力によるものではないように思えます。

また、全国の諸国に国分寺と国分尼寺を建立させました。造営の費用は、それぞれの国の租税を用いました。ここに、天下の費用は十分の一の五(半分)を費やしました。

(ハ) 原文:(盧舎那)大仏像成りて、始めて開眼す。この日、東大寺に行幸す。天皇親から文武の百官を率ゐて、設斎大会す。その儀は一に元日に同じ。・・・・・・この夕、天皇,大納言 藤原朝臣仲麿の田村第に還御して、以て御在所と為す。

現代語訳

盧舎那の大仏像が完成して、初めて開眼供養が行われました。この日、天皇は東大寺に行幸なさいました。天皇自ら文武百官を率いて、盛大な法要を行いました。その儀式はまったく元日と同じでした。……この夕、天皇は大納言 藤原朝臣仲麿の田村第にお帰りになり、そこを滞在場所とされました。

(ニ) 二十九日。天晴れたり。揚州は四十余寺あり。なかんずく過海し来たまえる(鑑真)和上の本住は竜興寺なり。影像現在せり。法進僧都の本住は白塔〔寺〕なり。

現代語訳

二十九日。天気は晴れでした。揚州には四十余りの寺があります。中でも海を渡って来られた(鑑真)和上の元の住居は竜興寺です。像が今も残っています。法進僧都の元の住居は白塔寺です。

史料(二)と遣唐使の廃止の背景

838年に遣唐使として入唐したのは、天台宗の僧である円仁(えんにん)であり、彼が著した『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』がその日記として知られています。

838年の円仁の派遣後、遣唐使は派遣回数を減らし、894年に菅原道真の建議によって正式に停止されました。背景には、唐帝国の衰退と国内の混乱、航海の危険性の増大、そして日本の国力の充実と独自文化への意識の高まりがありました。

大問5:明治新政府と貨幣制度

文章の出典は、恐らく明治4年(1871年)の「新貨条例」です。

史料(イ)現代語訳

わが国では昔から外国との貿易が少なく、貨幣の制度はまだ整っていませんでした。その種類は様々で、価値も一定していませんでした。

その概要を挙げると、慶長金貨、享保金貨、文字金貨、大小の判金、一分金、二分金、二朱金、一分銀、一朱銀、当百銭、大小様々な銅銭があり、その他一時的に通用した貨幣は数えきれません。ひどい場合には、一国や一郡に限って通用する貨幣があり、現在に至るまでほんの一部でしか通用せず、他の地域では流通しないものもあります。

このように、種類は様々で、形や大きさ、価値も異なり、混ざり合って雑然としており、質も同じではありませんでした。

……今、貿易がますます盛んになる時にあたり、古い弊害を改め、質の良い新しい貨幣を作らなければ、どうして流通を円滑にし、富国強兵の基礎を築けるでしょうか。これは政府の責任であり、まさに急務です。

そこで、明治元年(戊辰の年=1868年)から早くもその事業を起こし、莫大な費用を惜しまず、(大阪)に新たに造幣寮を建設し……それによって、質の良い通用貨幣を鋳造し、従来の貨幣に加えて一般の流通を助けようと考え、すでに開寮の儀式を終えました。

しかし、前に述べたように、様々な種類の貨幣が多いので……徐々に新旧の貨幣を交換し(以下略)

明治維新以前の日本では、金貨、銀貨、銅銭など多種多様な貨幣が流通しており、それぞれの価値が異なる上、地域によって使用できる貨幣も異なっていました。この状況は貿易の発展を妨げる要因となっていました。

そこで明治政府は、貨幣制度の統一と近代化を急務とし、明治元年(1868年)に大阪に造幣寮を設置して新しい貨幣の鋳造を開始しました。これにより、全国で通用する統一貨幣を発行し、経済の発展を促進することを目指しました。

史料(ロ)現代語訳

政府が発行した最初の紙幣は太政官札です。太政官札は、維新創業の際、国内外で多くの難題があり、国家の財政が困窮していた時にあたり、莫大な経費を支えるために、明治元年五月から発行されました。そして、その回収は明治五年四月に始まり、同十一年八月に終わりました。

太政官札に次いで発行されたものを(民部)省札といいます。(民部)省札は太政官札に大札が多く小札が少ないことから生じた不便を解消するために明治二年十月から発行されました。そして、その回収は明治五年三月から官札一両以下のものと同時に行われ、また官札と同時に回収を完了しました。

次に発行されたものを大蔵省兌換証券および開拓使兌換証券といいます。(以下略)

明治政府は、明治維新直後の財政難を乗り切るため、明治元年(1868年)5月に「太政官札」という紙幣を発行しました。これは、膨大な維新の費用を賄うための緊急措置でした。

しかし、太政官札には高額紙幣(大札)が多く、少額紙幣(小札)が少なかったため、日常の取引に不便が生じました。そこで、明治2年(1869年)10月に太政官札の不便を補うため、「民部省札」が発行されました。

民部省札は太政官札と並行して流通しましたが、明治5年(1872年)に官札(太政官札と民部省札の総称)の1両以下の紙幣の回収が始まり、明治11年(1878年)に回収が完了しました。その後、大蔵省兌換証券や開拓使兌換証券が発行されるようになりました。

国立公文書館請求番号:太00003100-04600簿冊名:太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第三巻・制度・貨幣一件名:新貨条例ヲ発行ス より

江戸時代と近代の貨幣制度の違いとは

江戸時代は金銀銭の三貨制度に加え、地域限定の貨幣も存在し、統一されていませんでした。

明治維新後、政府は造幣寮を設け、全国統一の貨幣を発行。単位も両から円に変更し、十進法を採用しました。

当初は太政官札や民部省札といった不換紙幣が発行されましたが(史料ロ)、その後、国立銀行の設立や日本銀行の設立を経て、兌換制度を備えた近代的な紙幣制度が確立しました。

これにより、複雑だった貨幣制度が整理され、紙幣の信用が高まり、近代的な経済活動に適した制度へと移行しました。

貨幣制度の近代化は、経済活動の円滑化、国内市場の統一、国際貿易の促進など、日本の近代化に大きく貢献しました。史料にある

「方今貿易ノ道弥盛ムナル時ニ当リテ旧弊ヲ改メ精良ノ新製ヲ設ケスハ何ヲモッテ流通ノ道ヲ開キ富国ノ基ヲ立ンヤ」

という記述は、まさに貨幣制度の近代化が富国強兵の基礎となると認識されていたことを示しています。

慶應文学部2017日本史:大問5

大問5:戊戌封事(ぼじゅつふうじ)と内憂外患

戊戌封事(ぼじゅつふうじ)は、水戸藩主・徳川斉昭が、幕府の政治改革を訴えて提出した意見書です。天保9年(1838年)に書かれたことからこの名が付けられました。

*戊辰戦争(1868年)など、「戊」の付く出来事は末が「8」

戊戌封事が書かれた背景と結果

当時の日本は、天保の大飢饉大塩平八郎の乱など、内政が混乱している状態でした。また、外国船来航など、外国との関係が緊迫化していました。このような状況下で、斉昭は幕府の政治が腐敗していると感じ、改革の必要性を強く訴えました。

戊戌封事は、幕政改革の必要性を再認識させることになりました。しかし、幕府は具体的な改革を実行に移すことができず、幕末の動乱へとつながっていくことになります。

戊戌封事の内容

戊戌封事では、以下の点が主な内容として挙げられます。

  • 道徳の低下: 賄賂が横行し、道徳心が失われている現状を批判。
  • 外交問題: 外国船の来航など、対外関係の重要性を指摘。
  • 財政問題: 財政の立て直しと、新たな収入源の開拓を提言。
  • 商業活動: 行き過ぎた商業活動に対する批判と、適正な規制の必要性を主張。

戊戌封事の現代語訳

原文

当時太平の御世には御座候えども、人の身にたとえ候えば甚だ不養生にて、種々さまざまの病症きざし居り候

(中略)右の病症委細は筆紙に尽し兼ね候えども、大筋は内憂と外患との二つに御座候。内憂は海内の憂いにて、外患は海外の患いに御座候

(中略)凶年にて百姓の飢死候をも見殺しにいたし、武備は手薄く候て士民惰弱に相成り居り候故、近年三州・甲州の百姓一揆徒党を結び、又は大坂の好賊容易ならざる企て仕り、猶当年も佐渡の一揆御座候は、畢竟下々にて上を怨み候と、上を恐れざるより起り申し候

(中略)海外の国にては日本の富有るをうらやましく存じ候義勿論に御座候。五世界の内、横文字を用い侯国はみな邪宗の国にて、追々その宗旨をひろめ、今は日本と清国・朝鮮・琉球等のみにて、其他は残らず御制禁の切支丹宗門と罷り成り候。

清国は何を申すも大国ゆえ、夷狄も容易に手を出し申すまじく、朝鮮・琉球等は貧弱の小国に候間、目にかけ申すまじく、さ候えば第一に日本をねらい、次に清国をきりしたがえ候手順に御座候わん故、実に憂うべく悪むべき事に御座候。

現代語訳

今、世の中は平和に見えますが、人の体に例えると、非常に体調が悪く、様々な病気の兆候が見られます。

(中略)…この病気の詳しい状態は全て書き出すことはできませんが、大まかに言うと、国内の問題と国外からの脅威の二つ(内憂と外患)に分けられます。内憂の問題とは、国の内部で起こっている様々な問題のことです。外患とは、外国から国に迫ってくる危険な状態のことです。

(中略)…不作で農民が飢え死にしているのに放置し、国を守るための備えが怠り、人々は怠け者になっています。最近では、三河や甲州で農民たちが集団で反乱を起こし、大坂では悪事を働く者が陰謀を企て、さらには佐渡でも反乱が起こりました。これらの出来事は、結局のところ、庶民が上の者たちに不満を持ち、もはや上の者を恐れないという状況から生まれたものです。

(中略)…外国、特に西洋諸国は日本の富をうらやましく思っており、キリスト教を広めるなどして日本を侵略しようとしています。…五つの大陸のうち、西洋諸国はみなキリスト教の国で、その勢力を広げようとしています。今は日本、清国、朝鮮、琉球だけがキリスト教を禁止していますが、他の国々はすべてキリスト教の国となっています。

清国は何を言うまでもなく大国なので、西洋諸国も容易に手を出しませんが、朝鮮・琉球は貧弱な小国なので、目をつけられるかもしれません。つまり、まず日本をねらい、次に清国を打ち倒す順番になるでしょう。実に憂慮すべき事態です。

慶應文学部2015日本史:大問4

原文

(イ)泰時ただひとり、鞭をあげて馳せきたり。父、胸うちさはぎて「いかに」と問ふに、「(中略)もし道のほとりにも、はからざるに、かたじけなく、鳳輦を先だてて、御旗をあげられ、臨幸の厳重なる事も侍らんに参りあへらば、その時、進退はいかゞ侍べからん。この一事をたづね申さんとて、ひとり馳せ侍き」といふ。義時、とばかりうち案じて「かしこくも問へるおのこかな。その事なり。まさに君の御輿に向ひて、弓を引くことは、いかゞあらん。さばかりの時は、かぶとをぬぎ、弓の弦を切りて、ひとへにかしこまりを申て、身をまかせ奉るべし。さはあらで、君は都におはしましながら、軍兵を給せば、命を捨てて、千人が一人になるまでも戦ふべし」と、いひもはてぬに急ぎ立ちにけり。

【現代語訳:意訳】

泰時は一人で馬を駆り出しました。父親が驚き、「どうしたのか」と尋ねると、泰時はこう答えました。「もし道端で予期せぬことが起こり、鳳輦(天皇の乗り物)が先導され、大勢の兵を従えて厳重な警護のもとに進んでいる場面に遭遇した場合、その時にどうすればいいのか、ただそれを確かめるために急いで来たのです。」

義時はその言葉を聞いて深く考え込み、「なんと賢明な息子だろうか。それは重要な問いだ。もし君主の輿に向かって弓を引くような事態になったらどうすればいいのか? そのような状況では、兜を脱ぎ、弓の弦を切って、ただひたすらに恭順の意を表し、身を委ねるべきだ。しかし、君主が都にいらっしゃりながら、兵力を与えられた場合は、命を懸けて千人が一人になるまで戦い抜くべきだ。」そう言うと、泰時は急いで立ち去りました。

【現代語訳:逐語訳】

泰時がただ一人、鞭を上げて馬を走らせてやって来た。父の義時は、胸が騒ぎ、「どうしたのか」と尋ねると、泰時は「(中略)もし道の途中で、思いがけず、恐れ多いことですが、鳳輦(天皇の乗り物)を先頭に立てて、御旗が掲げられ、天皇の行幸のような厳重な事態に遭遇した場合、その時、どのように対処すべきでしょうか。この一件を尋ね申し上げようと思って、一人で馬を走らせて参りました」と言った。

義時は、しばらく考えて、「実に賢明な問いだな。その件だが、もし天皇の御輿に向かって弓を引くようなことがあれば、どうすればよいかということだな。そのような時には、兜を脱ぎ、弓の弦を切って、ひたすら謹んで事情を申し上げ、身を委ねるべきだ。そうでなく、天皇が都にいらっしゃる時に、軍兵を差し向けられたならば、命を捨てて、多くの兵が一人になるまで戦うべきだ」と言い終わらないうちに、急いで立ち去った。

北条義時が鎌倉幕府2代目執権で、北条泰時が3代目執権で、親子関係です。

3代目泰時は御成敗式目の編纂でも有名で、鎌倉北条氏の「中興の祖」とも言われています。

なお2代目義時を主人公にしたNHKの大河ドラマが「鎌倉殿の13人」です.3代目泰時も登場します。

原文

(ロ)「何ともあれ、土御門院の御末をこそ」と心中におもひけれども(中略)城介義景を使にて其由を申ける程に、(中略)義景申けるは「若すでに京都の御計にて、順徳院の宮つかせ給たらば、いかゞあるべき」と申けるを、泰時返々感じて「此事を申落たりける(中略)何条子細あるまじ。若さる御事あらば、おろしまゐらすべし」と申含けり。

【現代語訳:意訳】

「何よりも、土御門院の御子孫こそ大切だ」と心の中で思いつつも(中略)、城介の義景を遣わしてその旨を伝えたところ、(中略)義景は「もしすでに京都で順徳院の宮を迎え入れる準備が進んでいるとしたら、どうすればいいのか」と尋ねた。泰時はその言葉を何度も心に繰り返し、「このことを伝え忘れていたのか。何一つ差し支えない。もしそのようなことがあれば、中止するように伝えてくれ」と指示しました。

【現代語訳:完全版】

思いがけない身分の低い者の夢にも、これほどの出来事を見ることがあったとは。不思議なことである。

さて、関東へ早馬を走らせて知らせたところ、泰時はひたすら酒宴をして遊んでいたが、このような事態を聞いて、何も言わずにすぐに立ち上がり、障子をぴしゃりと閉めて奥へ入り、「これはどうしたものか。泰時の運もこれまでか。この事を朝廷に申し上げずに、京都からの沙汰(決定)があったならば、大変な事態になるだろう。朝廷に申し上げようとしても、取るに足りない身分の自分がどうこうできることでもない。進退窮まってしまった」と言って、三日三晩寝食を忘れて考えあぐねていたが、「何としても、土御門院の血筋だけは守らねば」と心の中では思っていたものの、結局は神仏のお計らいに任せるしかないと思い、若宮社へ参詣して神意を占ったところ、「土御門院の宮」という結果が出たので、「やはり自分の考えに間違いはなかった」と思い、すぐに城介義景を使者として、その旨を朝廷に申し述べさせた。

その間、義景がどこかの岩屋からか急いで帰ってきたので、「また何か大変な事が起こったのか」と思って、泰時は騒ぎ立てたところ、義景が申し上げるには、「もし既に京都の朝廷の決定で、順徳院の皇子を皇位につかせることになったならば、どうすればよいでしょうか」とのことだった。

泰時は何度も深く感じ入って、「このことを伝え忘れていたのか。殿(将軍)を上洛させたのはこのような事態のためである。実に良い問いであった。決して問題はない。もしそのような事態になったならば、天皇に申し上げて、しかるべき処置を仰ぐべきだ」と義景に言い含めた。

出典はおそらく増鏡です。

繰り返しますが、北条泰時は鎌倉幕府3代目執権で、御成敗式目の編纂でも有名です。

泰時といったら義時の息子で御成敗式目の人、スッと出てくるようにしてください。

原文

(ハ)前駈・御随身馳散テ声々ニ「如何ナル田舎人ナレバ加様ニ狼藉ヲバ行迹ゾ。院ノ御幸ニテ有ゾ」ト呼リケレバ、頼遠酔狂ノ気ヤ萌シケン、是ヲ聞テカラ、、ト打笑ヒ「何二院ト云フカ、犬ト云フカ。犬ナラバ射テ落サン」ト芸儘二、御車ヲ真中二取籠テ馬ヲ懸寄セテ、追物射ニコソ射タリケリ。

【現代語訳:意訳】

先駆けて走っていた者や随行者が四方八方へ散らばり、「なんという田舎者がこんな乱暴なことをするのか。院の御幸にあたってはけしからん」と叫び始めた。頼遠は酔いがさめ、それを聞いて「何だ、院というのは? 犬のことか? 犬なら射落としてやる」とふざけて、御車を真ん中にとらえ、馬を駆り立てて、まるで狩りの獲物を射るように矢を放った。

【現代語訳:逐語訳】

先駆けの者や御随身の者たちが馬を走らせながら口々に「一体どんな田舎者だからこのように乱暴な振る舞いをするのか。院の御幸(上皇の外出)であるのに」と叫んだので、頼遠は酔っ払っていたせいか、ふと悪ふざけの心が起きたのだろうか、これを聞いてから大声で笑い、「何が院だ、犬のことか。犬ならば射落としてくれるわ」と好き勝手に言い、御車を真ん中に取り囲んで馬を寄せ集めて、追物射(馬上から鹿などを追いかける遊戯)で鹿を射るように弓矢で射た。

土岐頼遠が光厳上皇に行った不敬事件の話です。この事件自体は日本史には出ないので覚えなくていいです。

康永元年(1342年)9月6日、美濃国(現在の岐阜県南部)の守護であった土岐頼遠は、笠懸の帰り道、京都市中において光厳上皇の牛車と遭遇しました。この時、頼遠が酒に酔っていた勢いもあって、「院(上皇のこと)と言うか、犬と言うか。犬ならば射ておけ」などと暴言を吐き、矢を射かけたという話です。

院と犬のダジャレです。

なお、光厳天皇は、討幕に失敗して隠岐に流された後醍醐天皇に代わって幕府に擁立された天皇です。

足利尊氏側の天皇で、大人の事情で歴代天皇に数えられない北朝の初代天皇です。

慶應文学部2014日本史:大問4~5

大問4:室町戦乱と中央文化

提示された史料は、室町時代から戦国時代にかけての日記や記録の抜粋であり、以下の内容を含んでいます。

  • 史料(イ):応永30年(1423年)に関東の情勢について、諸大名が京都に集まり協議した様子
  • 史料(ロ):文安3年(1446年)に能登守護の畠山義忠邸で月次会(定期的な集まり)が催された様子
  • 史料(ハ):文明9年(1477年)に応仁の乱の様子や、大名たちの動向
  • 史料(ニ):永正3年(1506年)に越前国の朝倉氏が屏風を新調したこと
  • 史料(ホ):享禄2年(1529年)に清三位入道が能登国から上洛したことや、大名間のやり取り

細かい大名の名前が出てきますが、この辺りの大名勢力図を理解するために、応仁の乱時勢力図はガチっと頭にいれておきましょう!

山﨑 圭一著「一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書」より

設問の解答と解説

問1:下線「関東の事」とは、当時の鎌倉公方が京都の幕府に対して見せていた不穏な動きをめぐる議題である。その鎌倉公方の氏名を記しなさい。

解答:足利持氏 
解説:足利持氏は、関東公方として幕府と対立し、永享の乱や嘉吉の乱を引き起こした。

問2:下線「管領」は、この5年後も管領職にあって、未曽有の規模の土一揆の処理にあたった人物である。その氏名を記しなさい。

解答:細川勝元 
解説:細川勝元は、室町幕府の有力な守護大名であり、管領として幕府の政治を主導していた。

問3:下線のように諸大名を招集したのは、当時既に将軍職を退きながらも幕府の代表者であり続けていた人物である。その氏名を記しなさい。

解答:足利義満
解説:足利義満は、室町幕府の3代将軍であり、南北朝合一を成し遂げ、幕府の権力を確立した。

問4:下線の高山宗砌は主君の(A)が一時失脚して京都を離れた際、(A)とともにその領国の但馬に下り、かの地で死去した。(A)に当てはまる人物の氏名を記しなさい。

解答:山名宗全
解説:山名宗全は、室町幕府の有力な守護大名であり、応仁の乱を引き起こした人物。

問5:下線の高山宗朝は連歌の名手で、同じ和歌会に参加した幕府直臣の杉原賢盛や政所代という要職にあった蜷川智報らとともに連歌七賢と称された。彼らの連歌を収録した1495年成立の准勅撰連歌集の書名を記しなさい。

解答:新撰菟玖波集
解説:新撰菟玖波集は、連歌七賢の作品を中心に収録された連歌集であり、当時の連歌の隆盛を示す資料。

問6:下線「今出川殿」は将軍家の一族で、問4の(A)を中心とする大内政弘・土岐成頼らの陣営の代表者として担がれていた人物である。その氏名を記しなさい。

解答:足利義視
解説:足利義視は、足利義政の弟であり、応仁の乱では西軍の総大将として担ぎ出されました。問題が応仁の乱の発端であれば足利義視は東軍になりますが、それ以降は西軍になります。問題は、1477年で応仁の乱終盤なので、大内→山名→西軍→足利義視(今出川)といったプロセスで解答します。

山﨑 圭一著「一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書」より

問7:下線のような屏風を一般に何と呼んでいるか。その名称を記しなさい。

解答:洛中洛外図屏風
解説:洛中洛外図は、京都の市街地とその周辺を描いた屏風絵であり、当時の風俗や景観を知る上で貴重な資料。

問8:下線「大守」の家臣の子として生まれ、能登で画技を身につけた後、京都で「智積院模絵」などを描いて、桃山時代を代表する絵師となったのは誰か。その氏名を記しなさい。

解答:長谷川等伯
解説:長谷川等伯は、能登国出身の絵師であり、狩野派とは異なる独自の画風を確立した人物。

問9:史料(ニ)(ホ)からもうかがえるように、多くの戦国大名が中央の文化を求め、城下町を中心に地方文化が花開いた。なぜ地方の大名たちが中央の文化を求めたのか、史料(イ)~(ハ)を踏まえつつ、80字以内で論述しなさい。

解答:戦乱の時代、大名たちは中央の文化を取り入れることで、自らの権威を高め、領国統治を安定させようとした。また、文化交流は外交や情報収集の手段でもあった。(79字)

解説:戦国時代の武将たちは、中央の文化を積極的に取り入れました。文化は、政治権力を象徴するだけでなく、教養の深さを示すものでもありました。文化を積極的に摂取することで、国内の文化水準を向上させ、ひいてはそれが大名の権威向上に繋がると考えられていました。

設問の現代語訳

(イ) 応永三十年(1423)七月五日・・・・・・関東の事につき、畠山修理大夫入道(満慶、能登守護)と同道せしめ、管領亭に罷り向かふ。かの亭に於て、諸大名等悉く召し集む………………細川右京大夫(満元)・武衛(斯波義淳)・山名・赤松・一色・今河等参る。大内入道、召さるると雖も、所労により参らず。

【現代語訳:意訳】

(イ) 応永三十年(1423)七月五日

関東の事について、畠山修理大夫入道(満慶、能登守護)に同行して、管領の屋敷へ向かいました。その屋敷では、諸大名が皆召し集められていました。

細川右京大夫(満元)、武衛(斯波義淳)、山名、赤松、一色、今河などが参列していました。大内入道は、召し出されましたが、病気のため参列しませんでした。

管領の屋敷に諸大名が集まっている様子が描かれています。細川氏、斯波氏、山名氏、赤松氏といった有力大名に加え、大内氏も参加を求められています。

これは、中央の政治・文化の中心である京都に、地方の大名も集まる必要があったことを示しています。

(ロ) 文安三年(1446)正月廿日、畠山修理大夫入道賢良(義忠。満慶子、能登守護)家にて月次会始………………出題飛鳥井中納言入道、読師同じ、講師(高山)崇砌。人数は飛鳥井・亭主・一色左京大夫(教親、伊勢・丹後守護)・予・正徹・春日三位入道・畠山次郎・円雅・(杉原)賢盛・常勲・心恵・正晃・忍誓・常佐・(蜷川)智蘊・宗砌以下数輩なり。

【現代語訳:意訳】

(ロ) 文安三年(1446)正月二十日

畠山修理大夫入道賢良(義忠。満慶の子、能登守護)の家で月例の会が始まりました。

出題は飛鳥井中納言入道、読師も同じ、講師は(高山)崇砌でした。参加者は飛鳥井、亭主(畠山賢良)、一色左京大夫(教親、伊勢・丹後守護)、私、正徹、春日三位入道、畠山次郎、円雅、(杉原)賢盛、常勲、心恵、正晃、忍誓、常佐、(蜷川)智蘊、宗砌以下数名でした。

畠山氏の家で月次会(定期的な集まり)が行われ、飛鳥井中納言入道(文化人)を招いて講義が行われています。一

色氏など他の大名や文化人も参加しており、大名たちが文化的な交流を深めていたことが分かります。

(ハ) 文明九年(1477)十一月十一日・・・・・・戌刻ばかり、敵陣に回禄あり。今日、大内多々良政弘朝臣以下、陣払と云々・・・・・・土岐(成頼)以下、悉く没落と云々。今出川殿、同じく御没落と云々。

【現代語訳:意訳】

(ハ) 文明九年(1477)十一月十一日

戌の刻(午後8時頃)に、敵陣で火事がありました。今日、大内多々良政弘朝臣以下は、陣払い(陣地を放棄して退却すること)をしたということです。

土岐(成頼)以下は、皆没落(滅亡)したということです。今出川殿も、同じく没落したということです。

大内氏と土岐氏の争乱の様子が描かれています。今出川殿(足利義視)も没落しており、戦乱が京都にも及んでいたことが分かります。

このような不安定な状況下でも、大名たちは中央との繋がりを維持しようとしていたと考えられます。

(二) 永正三年(1506)十二月廿二日………………越前朝倉、屏風を新調す。一双に京中を画く。土左刑部大輔の新図、尤も珍重の物なり。一見して興あり。

【現代語訳:意訳】

(二) 永正三年(1506)十二月二十二日

越前朝倉氏が、屏風を新調しました。一双の屏風に京中の様子を描いています。土佐刑部大輔の新しい図案で、非常に貴重なものです。一見して興味深いものでした。

越前の朝倉氏が屏風を新調し、京都の様子を描かせています。土佐刑部大輔(絵師)の新しい図が珍重されており、地方の大名が京都の文化や芸術に強い関心を持っていたことが分かります。

(ホ) 享禄二年(1529)八月廿日………………清三位入道、能州より一昨日上洛すと云々。大守書状・柳一荷・両種、これを携ふ・・・・・・雑談す。講尺七十余度の由、これを申す。

【現代語訳:意訳】

(ホ) 享禄二年(1529)八月二十日

清三位入道が、能登から一昨日京都に上洛したということです。大守(能登国主畠山義総。義忠の玄孫にあたる)からの書状と、柳の一荷(荷物)、二種類の品物を持参して雑談をしました。講釈が70回以上であったということを話しました。

能登の畠山氏が、中央の学者である清原宣賢に書状と品物を送っている様子。

地方の大名が中央の文化人との交流を通じて情報収集や文化交流を行っていたことが示唆されます。

大問5:前島密と郵便制度

前島密氏は我国郵便制度の創始者として、已に男爵を授けられ、新たに華族に列したるが、此制度を初めて我国に移入したるは、果して前島新男爵のみの功か、少くとも氏をして此大業を遂げしめたるもの他になかりしか、之に対して世に疑を抱くものあり。

疑ふものは先づ前島氏の直話に付きて其年月の正確ならざることを言へり。曰く、前島氏は明治三年駅逓権正となり、翌四年八月駅逓頭となれりといへり。然れども我国に於て初めて駅逓正なるもの置かれしは、実に明治四年、廃藩置県の発表となりたる後のことなり。前島氏が其以前に駅逓権正となりたりといふは記憶違ひなる可し。

且つ最初前島氏が駅逓権正たりしとすれば、其上に駅逓正なるものありしは明かなり。其駅逓正は紀州の大故濱口儀兵衛翁(号梧陵)なり。

当時翁の交遊したる人物は勝安芳伯、福澤諭吉氏を始めとして、相尋で世を去り、能く翁の履歴を知るもの少きも、同じく和歌山県人にして当時翁と相携へ、大蔵省に出仕したる山本広氏のみは今尚健在なりといふ。記者仍りて氏に就て翁の履歴を聞くに、氏は曰く、

明治四年大蔵省に駅逓正なる職の初めて置かれし時に、最初に其の職に就きたるは濱口翁なり。余は翁と始終親しく交際したるが、翁は就任の当時飛脚屋の親方となれりとて人に笑はれたること度々あり。前島密氏が何時洋行し何時帰られたるかは余の知る所にあらざれども、明治五年頃濱口氏が駅逓正たりし時に、其下に前島氏が権正として働かれたるを記憶す。勝伯の選みたる梧陵翁の碑文にも「明治四年和歌山藩権大参事歴任駅逓正及駅逓頭」とあり。去れば郵便創始の名誉は前島氏の専有に帰す可からず。今回の祝典に翁の名の称せられざりしは遺憾なりといふべし。

【現代語訳:意訳】

前島密氏は、日本の郵便制度の創始者として、すでに男爵の位を授けられ、新たに華族の仲間入りをしましたが、この制度を初めて日本に取り入れたのは、果たして前島男爵だけの功績でしょうか。少なくとも、彼にこの大事業を成し遂げさせた他の人々はいなかったのでしょうか。このことに対して、世間では疑問を持つ人がいます。

疑問を持つ人々は、まず前島氏自身の話に基づいて、その年月が正確ではないと言っています。曰く、前島氏は明治3年に駅逓権正(えきていごんのかみ)となり、翌4年8月には駅逓頭(えきていがしら)になったと言っています。しかし、わが国で初めて駅逓正という役職が設けられたのは、実に明治4年、廃藩置県の発表後なのです。前島氏がそれ以前に駅逓権正になっていたというのは、記憶違いでしょう。

さらに、もし最初に前島氏が駅逓権正だったとすれば、その上に駅逓正の役職に就いていた人物がいたことは明らかです。その駅逓正は、紀州の大物であった故濱口儀兵衛翁(号は梧陵)です。

当時、濱口翁と親交のあった人物は、勝安芳伯爵、福澤諭吉氏をはじめとして、次々と亡くなり、濱口翁の経歴をよく知る人も少なくなりましたが、同じ和歌山県人で、当時濱口翁と協力し、大蔵省に出仕した山本広氏だけは今もご健在です。そこで、記者が山本氏に濱口翁の経歴について尋ねたところ、山本氏はこう語りました。

「明治4年に大蔵省に駅逓正という役職が初めて設けられた時、最初にその職に就いたのは濱口翁です。私は濱口翁と始終親しく交際していましたが、濱口翁は就任当時、『飛脚屋の親方になった』と人にからかわれたことが度々ありました。前島密氏がいつ洋行し、いつ帰国したかは私の知るところではありませんが、明治5年頃に濱口氏が駅逓正であった時に、その下で前島氏が権正として働いていたのを記憶しています。勝伯(勝海舟)が選んだ梧陵翁の碑文にも『明治四年和歌山藩権大参事歴任駅逓正及駅逓頭』とあります。ですから、郵便創始の名誉を前島氏だけのものとすることはできません。今回の祝典で濱口翁の名前が称えられなかったのは残念です。」

要するに、この記事は、前島密が郵便制度の創始者として広く知られているが、実際には濱口儀兵衛が先に駅逓正という役職に就いており、前島はその下で働いていた時期があったという証言と碑文の記述を提示することで、前島一人の功績とするのは不適切だと主張しています。

そして、今回の祝典で濱口の名前が言及されなかったことを遺憾であると述べています。

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