慶應文学部2023日本史解答解説:史料問題の現代語訳と背景知識|室町幕府と棄捐令
慶應義塾大学文学部の日本史では史料問題が出題されます。
教科書に載っている定番史料だけでなく、初見の史料も多く出題されます。この記事では、そんな史料問題の理解を深めるため、現代語訳や背景知識を紹介します。
2023年の大問4は、明徳の乱から応仁の乱勃発にいたるまでの室町幕府の政治動向。大問5は寛政の改革の棄捐令です。論述の総字数は180字で、2022年よりやや短くなりました。
大問4は6つの史料を読み比べ、最後の論述でそれまでの設問をすべて踏まえて答案を組み立てる、慶應文学部らしい作りでした。
なお大問1〜3は後半に解答と簡単な補足を載せておきます。
大問4:応仁の乱勃発までの政治動向
史料(イ)は「明徳記」。(ロ)〜(ヘ)は出典が明示されていませんが、当時の公家や僧侶が残した日記・記録類から採られています。
時代は1391年の明徳の乱から1463年まで、約70年にわたります。登場するのは山名氏・畠山氏・斯波氏・伊勢氏。バラバラな出来事に見えますが、将軍が守護大名の勢力や家督争いに介入していった過程として読むと、一本の流れが見えてきます。
2014年にもガッツリ出題されているので、やはり過去問研究は重要ですね。
>>>慶應文学部2014日本史解答解説:史料問題の現代語訳と背景知識|応仁の乱と前島密
大問4:解答
問1:山名氏清(陸奥守の官途から「奥州」と呼ばれた。甥で娘婿の山名満幸にそそのかされて明徳の乱を起こした)
問2:土岐(土岐康行。明徳の乱の前年、1390年の土岐康行の乱で勢力を削られた)
問3:足利義満(史料(ハ)の「鹿苑院殿」と同一人物)
問4:山名持豊[宗全](応仁の乱で西軍の総大将となった人物)
問5:義就(畠山義就。応仁の乱で西軍として奮戦した)
問6:足利義教(史料(ニ)の「普広院」と同一人物)
問7:嘉吉の変[乱](1441年6月、赤松満祐が足利義教を殺害した事件)
問8:斯波義廉(渋川氏出身。甲斐氏らに擁立されて越前・尾張・遠江の守護となった)
問9:北条氏綱(伊勢氏の一族である伊勢盛時=北条早雲が伊豆の大名となり、その子の氏綱が小田原に本拠を移した)
問10:義政は守護勢力を削いだ義満、強権政治を行った義教の先例を踏み、守護家に介入した。だが嘉吉の変で権威が揺らぎ、側近の専横も重なり対立が激化して応仁の乱を招いた。(79字)
資料集や参考書に絶対載ってる、応仁の乱の対立図は必ず頭に入れておきましょう。

史料(イ):明徳の乱
奥州ニ申サレケルハ「抑 京都ノ式、何トカ思食サレ候。只事ニフレテ諸事一家ヲ亡サルベキ御結構也。其故ハ去五ヶ年貴殿様我等ニ仰付ラレテ与州ノ一跡ヲ失ハレ、又彼等御免アラバ……我等ヲ御退治ノ御沙汰ニ及ベキ御企、色ニアラハレタリ。
……一族悉ク同心シテ国ノ勢ヲ引率シ、方ヨリ京都ヘ責入ラバ、今程誰カ在京ノ大名ノ中ニ当方ニ対揚シテ合戦モ仕リ候ベキ」
現代語訳例
奥州(山名氏清)に対して、こう申し上げた者がいました。「そもそも、京都のやり方をどうお考えですか。何かにつけて、我ら一族を滅ぼそうとするお企てです。その理由は、五年前、貴殿様(足利義満)が我らに命じて与州(=伊予守の山名時義)の所領を失わせておきながら、もし彼らが赦免されるようなことがあれば……我らを討伐しようとする企てが、すでに露わになっています。
……一族すべてが心を一つにして国の兵を率い、四方から京都へ攻め入れば、今どき在京の大名の中に、我らと対抗して合戦できる者がいるでしょうか」
出典は「明徳記」。1391年(明徳2年)の明徳の乱を描いた、室町軍記の代表作です。
「明徳記」の作者は不詳ですが、山名氏への非難と足利義満への賛辞が随所に見られることから、義満の側近が書いたと推定されています。成立は乱の直後、明徳3年(1392年)夏以降と考えられており、事件から時を置かずに書かれた点に価値があります。
ただし軍記物語である以上、勝者の視点で構成されている点には注意が必要です。実際、明徳記は山名方の総大将を氏清としていますが、今日の研究では家督争いの当事者だった甥の満幸が首謀者で、氏清はそれに従う形で参戦したとみられています。史料(イ)で満幸が氏清を説得している場面も、そうした構図を反映していると読めます。
奥州(下線a)は山名氏清。官途が陸奥守だったことから、こう呼ばれました。氏清に対してこう説いているのが、甥であり娘婿でもある山名満幸です。山名一族は最盛期に11か国の守護職を握り、「六分一殿」と称されるほどの勢力を誇っていました。その巨大さを警戒した将軍足利義満が、一族の内紛に介入して勢力を削ごうとしたのが事の発端です。
文中の「与州」も、官途による呼び名です。伊予守だった山名時義を指します。時義は氏清・満幸の兄(または叔父筋)にあたる惣領で、1389年に病没。その子の時熙と、甥の氏之が家督を継ぎますが、翌1390年、義満の命令を受けた氏清・満幸によって討伐され、所領を奪われました。これが「貴殿様(義満)が与州の一跡を失わせた」という一文の背景です。時義の子・時熙のそのまた子が、問4で問われている山名持豊(宗全)。つまり与州=時義は、持豊の祖父にあたります。
山名満幸のこの説得は成功し、氏清・満幸らは一族を率いて京都へ攻め入りますが、幕府軍に敗れて滅びます(明徳の乱)。山名氏の勢力はこれ以降大きく後退しました。
なお下線b(一家を滅ぼされる、という被害)は、明徳の乱の前年、1390年に起きた土岐康行の乱を指します。土岐氏もまた、義満によって勢力を削がれた大名のひとつでした。山名氏はその前例を見て、自分たちも同じ運命をたどることを恐れていました。

史料(ロ):畠山氏の政変
永享十三年正月廿九日……畠山尾張守面目を失ひて没落し、舎弟左馬助ニ家を給ふ。……関東へ罷り向かふべきの由、仰せらるるに故障を申す。仍て夜前に家を退くべきの由、仰せ出さると云々。
現代語訳例
永享13年(1441年)正月29日……畠山尾張守(畠山持国)は面目を失って失脚し、弟の左馬助に家督を与えられた。……関東へ向かうよう命じられたが、都合が悪いと申し上げた。そのため、前夜のうちに屋敷を退去するよう命じられた、という。
永享13年(1441年)正月、足利義教の治世末期に記された記事です。同年6月には嘉吉の変が起こり、義教は赤松満祐に殺害されます。
この時期の記録としては、伏見宮貞成親王の日記「看聞日記(看聞御記)」が知られています。貞成親王は皇族の立場から幕府や朝廷の動きを間近に見ており、室町中期の政治や社会を伝える一級の史料です。
嘉吉の変に関しては、以下の動画16:00~が詳しいです。
畠山尾張守(畠山持国)は当主の座を追われ、弟に家督を譲らされました。将軍の命令ひとつで、有力守護の家督が動かされていたことがわかります。
問5で問われているとおり、この畠山尾張守=畠山持国の子が畠山義就。義就はのちに応仁の乱で、山名持豊(宗全)と同じ西軍として戦うことになります。

史料(ハ):義政の元服と義満の先例
文安六年四月十六日……この夜、室町殿御元服なり。加冠は細川武蔵守勝元、管領なり……今度、鹿苑院殿の応安元年四月御元服の時、細川武州頼之が加冠たる御嘉例なり。
現代語訳例
文安6年(1449年)4月16日……この夜、室町殿(足利義政)の元服の儀があった。加冠役は管領の細川勝元。……これは、鹿苑院殿(足利義満)が応安元年(1368年)4月に元服した際、細川頼之が加冠役を務めたという先例にならったものである。
8代将軍義政(よしまさ)の元服は、3代義満の元服の先例をそのまま踏襲する形で行われました。加冠役の細川氏も、頼之から勝元へと、同じ家の子孫が務めています。
文安6年(1449年)の義政の元服については、権大外記・中原康富の日記「康富記」に記録が残っています。康富は朝廷の実務を担う下級官人で、応永24年(1417年)から康正元年(1455年)まで長期にわたり日記を書き継ぎました。朝廷の儀式や幕府の動向、公家社会の様子を実務者の目線で細かく記しており、室町中期を知るうえで欠かせない史料です。書状や文書の裏を再利用して書かれている点も、当時の紙の貴重さを物語っています。
一見ただの儀式の記録ですが、8代義政が3代義満の先例を踏まえて将軍としての地位を整えていったことがわかります。問10では、この史料と次の史料(ニ)をあわせて、義政の政治姿勢を考えることになります。
史料(ニ):6代義教への政治回帰
長禄二年四月七日……近日の御成敗、普広院の御代の如くたるべしと云々。
現代語訳例
長禄2年(1458年)4月7日……近ごろの将軍のご裁定は、普広院(足利義教)の時代のようだ、という。
普広院は足利義教の法名です。6代将軍義教は「万人恐怖」と評されるほど強権的な政治を行い、最終的に嘉吉の変(問7)で暗殺された将軍でした。
史料(ニ)以降の長禄・寛正年間の記録には、興福寺大乗院門跡・尋尊の日記「大乗院寺社雑事記」が該当します。尋尊は関白一条兼良の子で、9歳で大乗院に入り、以後70年にわたって門跡を務めた人物。日記は宝徳2年(1450年)から永正5年(1508年)までの約60年分が現存し、応仁の乱前後の重要史料とされています。
この史料は、義政の裁定が義教の時代のようになってきた、という当時の評価を伝えています。史料(ハ)で3代義満の先例を踏襲していた8代義政が、今度は6代義教のような強権にも近づいている旨を述べています。こ
史料(ホ):斯波氏と下剋上
長禄三年正月十四日……越州・尾州合戦なり。共に以て甲斐と右兵衛佐と諍の故なり。主従の合戦、未曾有の次第なり。澆季と謂ふべし。但し甲斐の事、室町殿御引汲の間、ややもすれば右兵衛佐方劣り見ゆるものなりと云々。
現代語訳例
長禄3年(1459年)正月14日……越前・尾張で合戦があった。いずれも甲斐常治(かい じょうち/つねはる)と右兵衛佐(斯波義敏 しば よしとし)との争いが原因である。主従の間での合戦とは、前代未聞のことだ。末世というべきである。ただし甲斐氏の件は、室町殿(8代義政)が支援しているため、ともすれば右兵衛佐(斯波義敏)の側が劣勢に見える、という。
甲斐氏(下線g)は、右兵衛佐(下線h)こと斯波義敏の重臣です。本来は主君を支える立場の家臣が、主君と合戦にまで及んでいる。これが「未曾有」「澆季(末世)」と評される所以です。
甲斐氏=甲斐常治、右兵衛佐=斯波義敏で、史料(ホ)(長禄3年正月)は「長禄合戦」の一場面で構図としては、
斯波義敏(守護・主君)
↓
甲斐常治(守護代・重臣)
という主従関係にありながら、両者が争っているというものです。
本来なら家臣にすぎない甲斐氏の側を、8代将軍義政が支援している。だから主君である右兵衛佐(斯波義敏)のほうが劣勢に見える、というのです。将軍が守護家内部の対立に介入することが、後の応仁の乱を理解するうえでの背景になります。
その後、斯波義敏は幕府の命令に背いたとして守護職を奪われ、子の松王丸に家督を継がせられます。更にその後、家督は渋川氏出身の斯波義廉(問8)に移りますが、斯波義敏はのちに赦免されて復権。応仁の乱では義敏が東軍、義廉が西軍につき、斯波氏の家督争いはそのまま乱の対立軸のひとつとなりました。

史料(ヘ):伊勢貞親と小田原北条氏
寛正四年十一月十九日……武衛御免と云々。伊勢守の申沙汰なり。甲斐・朝倉の生涯となるべしと云々。誠に以て天下の珍事たるべきか。
現代語訳例
寛正4年(1463年)11月19日……武衛(斯波義敏。右兵衛佐と同一人物)が赦免された、という。これは伊勢守(伊勢貞親)の取り計らいによるものである。甲斐氏・朝倉氏にとっては命取りとなるだろう、という。まことに天下の珍事というべきだろうか。
史料(ホ)で将軍の支援を受けていたはずの甲斐氏側が、一転して窮地に立たされます。仲裁したのは伊勢守(下線i)こと伊勢貞親。将軍の側近である政所執事が、守護家の家督争いの結末まで左右するようになっていた、ということです。
問9で問われている伊勢盛時(=北条早雲)も伊勢氏の一族です。早雲は伊豆に討ち入って戦国大名としての第一歩を踏み出し、伊勢盛時(=北条早雲)の子の北条氏綱は小田原を本拠として勢力を広げました。
室町幕府の中枢にいた伊勢一族の一員が、後北条氏や小田原北条氏と呼ば、関東を支配する戦国大名となります。
ちなみに、北条早雲こと伊勢盛時を主人公にしたのが「新九郎、奔る!」です。受験日本史的には極々一部になってしまいますが、当時の空気感を知りたい受験生にはオススメです。
問10論述:6つの史料をどう読むか
問10は、この6つの史料全体を踏まえて、義政の政治姿勢と応仁の乱勃発との関連を80字でまとめる問題でした。
義満・義教という2人の前例にならって将軍専制を志向したこと、しかしその介入が守護家の家督争いをかえって激化させ、側近の専横まで招いたこと。2点を入れたいところです。
出典の性格を並べてみると、この大問の作りが見えてきます。
冒頭の(イ)だけが軍記物語で、残りは日記です。軍記物語は読み物として構成されているぶん脚色が入りますが、日記は基本的にその日その日の出来事を書き留めたもの。だからこそ「近日の御成敗、普広院の御代の如く」(史料ニ)や「誠に以て天下の珍事たるべきか」(史料ヘ)のような、当時を生きた人の生の評価が残ります。
こうした同時代人の反応は、後世に書かれた歴史書からは出てきません。義政の政治が周囲からどう見られていたのか、将軍側近の専横が「珍事」と受け止められるほど異例だったのか。日記だからこそ当時の様子が伺えます。
問10解答例
義政は守護勢力を削いだ義満、強権政治を行った義教の先例を踏み、守護家に介入した。だが嘉吉の変で権威が揺らぎ、側近の専横も重なり対立が激化して応仁の乱を招いた。(79字)
慶應文学部が毎年のように史料を出題するのは、この「同時代の視点」を読み取らせたいからだと考えると、対策の方向も見えてきます。
応仁の乱に関しては、途中でも紹介した以下の動画がわかりやすいです。参考書を片手に見てみてください。
大問5:寛政の改革と棄捐令
札差(蔵宿)に対する旗本・御家人の借金を帳消しにする、寛政の改革の代表的な政策です。
大問5:解答
問1:1789年(寛政元年)
問2:徳川家斉
問3:浅草御蔵(幕府最大の米蔵。地名の浅草にちなむ)
問4:札差(蔵宿の江戸での呼び名)
問5:六(6年以前の借金は帳消し)
問6:棄捐
問7:天保(「御触書天保集成」に収録)
問8:蔦屋重三郎(耕書堂を開いた版元。寛政の改革の出版統制で処罰された)
問9:幕府は困窮する旗本・御家人を救い、政権の基盤である幕臣を立て直すため、札差に6年以前の借金破棄を命じた。だが打撃を受けた札差が融資を渋るようになり、幕府は低利融資で下支えする事態を招いた。(94字)
史料:棄捐令
此度、御蔵米取御旗本・御家人勝手向御救いのため、蔵宿借金仕法御改正仰せ出され候事。
一、御旗本・御家人蔵宿共より借入金利足の儀は、向後金壱両ニ付銀六分宛の積り、利下ヶ申渡候間、借り方の儀ハ、是迄の通り蔵宿と相対致すべき事。(中略)
一、旧来の借金は勿論、【六】ヶ年以前辰年までニ借請候金子は、古借新借の差別なく、【棄捐】の積り相心得べき事。(下略)
「御触書【天保】集成」より
現代語訳例
このたび、蔵米取の旗本・御家人の暮らし向きを救済するため、蔵宿からの借金の仕方を改める。
一、旗本・御家人が蔵宿から借り入れる際の利息は、今後は金一両につき銀六分の割合とし、利下げを申し渡す。借り方については、これまでどおり蔵宿と直接話し合って決めること。(中略)
一、以前からの借金はもちろんのこと、六年前の辰年以前に借りた金は、古い借金と新しい借金の区別なく、帳消しにする心得でいること。(下略)
出典は「御触書天保集成」。1789年(寛政元年)、11代将軍徳川家斉のもとで出された棄捐令(きえんれい)です。松平定信による寛政の改革の一環でした。
蔵宿とは、旗本・御家人の俸禄米(蔵米)の受け取りや換金を代行する商人のこと。江戸では札差と呼ばれます。旗本・御家人は俸禄を担保に札差から借金を重ねており、その利子負担が困窮の大きな原因になっていました。
この史料が命じているのは2つです。ひとつは今後の利息の引き下げ(金1両につき銀6分)。もうひとつは、6年前(辰年)以前の借金の帳消し、つまり棄捐です。旗本・御家人にとっては大きな救済になります。
棄捐令(きえんれい)の反動
しかし、これは札差には大損害でもありました。棄捐令によって札差も大きな打撃を受け、新たな貸し付けが滞るようになります。旗本・御家人は目先の借金は消えたものの、今度は新しい借金ができずに困窮する新たな問題が生まれました。
幕府は、札差に低利の資金を融資して営業を支えるなどしましたが、結局のところ棄捐令の効果は一時的なものにとどまりました。
問9は、この棄捐令が出された理由と、その結果について100字でまとめる問題でした。「旗本・御家人の救済」という理由は史料に明記されていますが、100字という指定字数を考えると、それだけでは答案として十分とは言えません。札差の反発、融資拒否、幕府に資金融資といった、史料の背後にある結末まで書くと良いでしょう。
問8で問われた蔦屋重三郎も、この時期を象徴する人物です。江戸に耕書堂を開いた名うての版元でしたが、寛政の改革の出版統制のなかで、洒落本作者・山東京伝の作品をめぐって処罰されました。棄捐令と並んで、この時期の幕府がいかに強い統制を敷いていたかを物語っています。
日本史の流れ的には、前任の田沼意次時代から、堅物の松平定信になったイメージで覚えておくと、その他の政策含めて記憶しやすくオススメです。
今回は文化史として、ミスター武士道氏の蔦屋重三郎の解説動画を添えておきます。
ここからは大問1~3です。
大問1:原始・古代の対外関係
空所補充後の本文
(イ) 「後漢書」東夷伝には、紀元【57】年、倭の奴国の王の使者が後漢の都である【洛陽】におもむいて、光武帝から印綬を与えられたとある。また「魏志」倭人伝には、争乱を経て女王に立てられた邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送り、魏から金印や【銅鏡】などを送られたと記されている。卑弥呼は晩年には【狗奴国】(語群になし)と争ったが、247年頃に亡くなった。中国の歴史書には、266年に晋の都【洛陽】に、倭から遣使があったとする記事の後、約150年間は倭国に関する記載がみられなくなる。
(ロ) ヤマト政権が成立し、3世紀中頃から後半になると、前方後円墳をはじめとする古墳が出現するが、出現期に最大の規模をもつ古墳は、奈良県桜井市の【箸墓古墳】である。ヤマト政権は、対外的には朝鮮半島南部の鉄資源を確保するために、早くから【加耶諸国】と密接な関係をもっていたが、【好太王碑】には、4世紀後半には南下策を進めていた【高句麗】と交戦をしたことが記されている。
(ハ) 589年に隋が南北朝を統一したことは、東アジア諸国に影響を与え、倭でも国家組織の形成が進められた。【敏達】天皇の后であった推古天皇が即位すると、蘇我馬子や厩戸王らとともに、603年に【冠位十二階】を定めるなど、中央行政機構の整備がなされた。また【隋書】(語群になし)によると、中国の地方官のような【軍尼】、里長のような伊尼翼という地方組織が存在したとされている。
(ニ) 701年正月、32年ぶりに任命された遣唐使は、【粟田真人】を使節団のトップとして、翌年6月に派遣された。「旧唐書」東夷伝日本条によると、粟田真人は学識や立ち居振る舞いから高く評価されたらしく、時の皇帝である【則天武后】からは隣徳殿に招かれて宴を催されている。その後の8世紀の遣唐使は、約【20】年に一度の割合で派遣され、唐の先進的な制度や国際的な文化をもたらした。
(ホ) 8世紀には、日本は唐のみならず、他の東アジア諸国とも通交した。727年に日本に使者を派遣した【渤海】は、唐・新羅との対抗関係から国交を求め友好的に通交した。渤海の都城跡からは、【和同開珎】が発見されたことなどから、交流の痕跡が知られている。通交は10世紀初頭まで続いたが、926年に渤海は【契丹】によって滅ぼされた。
解答一覧
(イ) A:57 B:洛陽 C:銅鏡 D:0(狗奴国、語群にない)
(ロ) E:箸墓古墳 F:加耶諸国 G:好太王碑 H:高句麗
(ハ) I:敏達 J:冠位十二階 K:0(隋書、語群にない) L:軍尼
(ニ) M:粟田真人 N:則天武后 O:20
(ホ) P:渤海 Q:和同開珎 R:契丹
「軍尼」や「則天武后」は教科書の脚注レベルの知識で、難しい設問でした。
D・Kの2つの0は、卑弥呼と争った狗奴国、地方組織を伝える「隋書」がいずれも選択肢に含まれていません、紛らわしい...!!
大問2:日本における養蚕・製糸・絹織物業
(イ) 日本における養蚕・製糸・絹織物業は、古くは記紀の説話の中に見られ、渡来人である【弓月君】によってその進んだ技術が伝えられたことが記されている。律令下にあっては、税目の一つである【調】(語群になし)の中に絹・絁が含まれ、中世においては年貢・公事の中に絹製品が含まれていた。ただ、17世紀末までは、【西陣】織などの高級織物の原料には中国産の生糸が用いられており、国内の養蚕・製糸の技術はさほど高くなかった。しかし、その後の貿易制限により生糸の輸入が抑制されるようになると、輸入代替として国内の養蚕・製糸業は高まりを見せ、江戸中期には輸入生糸に代わって国産生糸が主流となり、【上野】の桐生をはじめ、地方の絹織物産地も発達した。
(ロ) 綿はインド原産と言われ、古くは【菅原道真】編「類聚国史」に、三河に漂着した「崑崙人」(インド人と思われる)が綿の種子をもたらしたことが記されているが、これを機に綿作が日本に定着することはなかった。日朝貿易において綿織物が輸入されたが、主な用途としては兵衣・帆布などであり、主に麻の衣類を着ていた庶民の衣生活を根本的に変えることはなかった。なお、日朝貿易は【応永の外寇】により一時中断したが、16世紀まで活発に行われた。日本での綿作は戦国期から江戸期初頭以降しだいに広がりを見せ、特に畿内では、鰯の大産地である【九十九里浜】産の干鰯などの金肥を用いて、盛んに綿が生産されるようになった。19世紀に刊行された【大蔵永常】(語群になし)著「広益国産考」には主要綿作地の状況が記されている。そして【小倉】織・久留米絣・河内木綿などの綿織物の特産物も生まれた。
(ハ) 近世初期には日本の主要輸入品であった生糸は、その後の養蚕・製糸業の発達によって、幕末には主要輸出品に転換していた。【1859】(語群になし)年に横浜が開港されて間もないうちは、生糸の次に輸出額が多かったのは【茶】であったが、輸入品では綿織物や毛織物が主であった。貿易全体としては1866年までは日本の【輸出】超過が続いた。綿糸紡績業は、外国からの綿製品の流入に刺激され、明治以降機械化が進展し、1883年に設立された【大阪】紡績会社を嚆矢に、大規模な紡績会社が次々誕生した。その結果、1890年には綿糸の【生産】高が【輸入】高を追い越し、1897年には【輸出】高が【輸入】高を追い越した。一方、生糸製糸業は、波はありつつも輸出産業として生産高を拡大していくが、機械化の面では綿糸紡績業に比べると後れをとった。
解答一覧
(イ) A:弓月君 B:0(調、語群にない) C:西陣 D:上野
(ロ) E:菅原道真 F:応永の外寇 G:九十九里浜 H:0(大蔵永常、語群にない) I:小倉
(ハ) J:0(1859年、語群にない) K:茶 L:輸出 M:大阪 N:生産 O:輸入
M(1883年設立とされた紡績会社=大阪紡績会社)については、問題文では設立年を1883年としていましたが、大阪紡績会社の創立は1882年で、1883年は工場の操業開始にあたります。そのため問題に一部不備があったとして、全受験者が正解を解答したものとみなして加点する措置がとられました。
B(律令の税目)は「調」が正解ですが、選択肢に「調」がなく0。J(横浜開港の年)も、正しくは1859年ですが選択肢には1854年(日米和親条約)と1858年(日米修好通商条約)しかなく、これも0という、紛らわしい作りでした。
大問3:1990年代の政治・経済
戦後日本の政治・経済情勢は1990年前後に変化した。国際情勢の変化に対応し、PKO協力法成立後の1993年に自衛隊はアフリカの【モザンビーク】に派遣された。
同年には国内の政治情勢も転換点を迎えた。同年6月に自由民主党は分裂し、【羽田孜】らは新党を結成した。翌月の衆議院議員総選挙で自民党は大敗北を喫し、日本新党の【細川護熙】を首相として連立政権が発足した。
1994年には羽田孜が首相となったが、短命に終わった。
1996年には【橋本龍太郎】が首相として連立政権を引き継ぎ、1997年に【財政構造改革】法を成立させて行財政改革の基本方針を定めた。同年に景気は後退し、11月には1900年設立の【北海道拓殖】銀行が破綻した。
こうした状況から1998年7月に首相となった【小渕恵三】は、所信表明で自らの内閣を「経済再生内閣」と銘打ち、同年に財政構造改革法停止法を成立させた。小渕恵三内閣は自民党単独内閣として成立したが、1999年1月の第1次内閣改造で【自由】党との連立政権となった。
解答一覧
A:モザンビーク(PKO協力法にもとづく自衛隊初の本格的な派遣先のひとつ)
B:羽田孜(新生党を結成。翌1994年に短命内閣を組織した)
C:細川護熙(55年体制崩壊後、非自民8党派連立の首相。細川ガラシャの夫こと細川忠興の直系子孫)
D:橋本龍太郎(1996年首相、消費税率を5%に引き上げた。慶應法学部卒、いろいろイカちぃ)
E:財政構造改革(法。歳出削減を掲げたが、不況下で1998年に停止された)
F:北海道拓殖(銀行。都市銀行として戦後初の経営破綻)
G:小渕恵三(1998年7月首相、平成おじさん。「経済再生内閣」を掲げたが、病気のため2年足らずの短命で終わった)
H:自由(党。小沢一郎が党首を務め、1999年に自民党との自自連立が成立した)
1990年代からの出題は、例年の大問3と比べて難問が多い年でした。
政党の離合集散や短命内閣が次々と続く時期なので、年表だけでなく人物と政策をセットで押さえておく必要があります。
TBSの歴代総理列伝が非常によくまとまっているので、今回登場した総理を列挙しておきます。
資料集を見比べながら見てみてください!
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